洋楽はアイドルが教えてくれた 70年代アイドルのライヴ・アルバムを聴く

昭和のサブカルに独自の視点から光を当てる活動で注目されるレトロカルチャー研究家・鈴木英之が、「アイドルのライヴ・アルバム」という意外な切り口で、アイドル文化が洋楽受容にはたした役割を明らかにする。

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PROFILE

鈴木英之

レトロ・カルチャー研究家、音楽ライター

すずき・ひでゆき:レトロ・カルチャー研究家、音楽ライター。1954年静岡県生まれ。音楽誌『VANDA』でライター・デビューし、『林哲司全仕事』『Soft Rock in Japan』(いずれも音楽之友社)、『昭和思い出し法』(C&R研究所)などを編集・執筆。FMラジオ・テレビ番組の制作にもかかわる。著書に『よみがえれ!昭和40年代』(小学館101新書)。

(通算第13回) 西城秀樹

 今回はパワフルなアクションや絶叫のヴォーカル・スタイルで、多くの女性たちを虜にし、後にはその存在が若手ロック・ミュージシャンのお手本となるなど、幅広い世代にファンを持つ西城秀樹を特集する。まず秀樹といえば、激しいライヴ・パフォーマンスが脳裏に浮かぶ。それもそのはず、彼は1970年代において初めてスタジアム・コンサートを開催したソロのアイドル・シンガーだった。そこでの度肝を抜くステージングは聴衆を圧倒・魅了し、現在のスタジアム・ライヴの布石になったといっても過言ではないだろう。
 そんな秀樹の音楽歴といえば幼少からドラムふれ、小学5年生でギターの兄とバンド活動を始め、高校時代になると芸能プロダクションにスカウトされて上京。そして1972年に「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズのもと〈恋する季節〉(42位:5.8万枚)で歌手デビューを果たす。その後、〈恋の約束〉(18位:14万枚)、〈チャンスは一度〉(20位:9.9万枚)、〈青春に賭けよう〉(16位:12.1万枚)とコンスタントにヒットを重ね、頭角を現していった。ただこの時点では、後に「新御三家」と呼ばれる二人、同年デビューで『第14回日本レコード大賞新人賞』を受賞した郷ひろみ、この年の『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場した野口五郎とは知名度で大きく差をつけられていた。
 しかし翌1973年6月発表の〈情熱の嵐〉がトップ10入り(6位:24.6万枚)、特にステージでのコール&レスポンス(「(♪君が望むなら)ヒデキー!!」)は、以後彼のトレードマークとなり、そして続く〈ちぎれた愛〉は「新御三家」で初のチャート1位(47.5万枚)を獲得した。11月には「ヒデキ、カ〜ンゲキィ!!」のセリフでお馴染みとなる「ハウス・バーモント・カレー」のCMに起用されている。この秀樹によるCM効果で、バーモント・カレーはさらに幅広い世代に支持され、日本のインスタント・カレー界のトップ・ブランドに君臨、それに並ぶように彼の存在も全国区となった。余談ながら、その後も「バーモント・カレー」のCMはトップ・アイドルが起用されるようになり、2016年現在はHey! Say! Jumpが起用されている。
 話は秀樹に戻るが、年末発表の〈愛の十字架〉が前作〈ちぎれた愛〉に続き連続1位(35.2万枚)を獲得し、ついにトップ・アイドルの地位を確立した。そして、『第15回日本レコード大賞歌唱賞』と実力も認められたが、残念ながら『第24回NHK紅白歌合戦』は落選している。
 翌1974年になるとTBS『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演し、小林亜星との派手な親子ゲンカが評判を呼ぶ。その乱闘シーンの撮影中に腕を骨折(『寺内貫太郎一家2』)するなど、秀樹らしいワイルドな話題も提供した。さらに、当時「少年マガジン」で評判となっていた『愛と誠』の映画化に際し、本人が直訴して映画初主演を果たし、俳優として活動を広げ、その存在はさらに国民的なものとなった。
 
アイドル 西城秀樹1
 
 そして2月発売の〈薔薇の鎖〉(3位:33.4万枚)では、ロッド・スチュワートの『Every Picture Tells A Story』のジャケットでもお馴染みのスタンド・マイクを使ったアクションが話題となった。ちなみに、今や矢沢永吉のトレードマークとなっているこのパフォーマンスを最初に日本中に知らしめたのは秀樹だと言っても過言ではないだろう。ただ日本初というのは、“ムッシュ”かまやつひろしで、彼は1972年の〈のんびりいくさ〉発表時に、ロッド・スチュワートのハリネズミ・ヘアー・スタイルまで完コピでライヴに登場していた。余談ながら、1980年代アイドル・ファンには田原俊彦の〈ブギ浮きI Love You〉(1981年、2位)のパフォーマンスでもお馴染みだろう。
 この勢いに乗った秀樹は、同年の夏に、日本で初めて野球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開催している(グループでの日本初は1968年のザ・タイガース)。そこではクレーンにより宙づりとなった「ゴンドラ」の中での歌、本邦初導入のレーザー光線による派手な仕掛けなど、ファンの度肝を抜く演出効果が大きな話題となった。それはこのパフォーマンスが現在のビッグ・コンサートの雛形になったと言われているほどだった。なお、1974年のライヴ会場で「なにか光るものを!」と観客に呼びかけたのがきっかけで、日本のコンサートでペンライトが広く普及したという説もあるほどだ。ちなみに、大阪球場は1974年より1983年まで10年連続(1978年からは東京後楽園球場でも開催)継続されている。
 さらに続く〈激しい恋〉(2位:58.4万枚)でのボディ・アクション、〈傷だらけのローラ〉(2位:34万枚)で披露された絶叫スタイルにより、シンガー秀樹の存在を大きくアピール。そして『第16回日本レコード大賞歌唱賞』でポップス歌手として史上初となる2年連続歌唱賞を受賞し、遂に『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場(1984年の〈抱きしめてジルバ〉まで11年連続出場)を果たすまでに至った。
 1975年2月には、初の海外進出作品として〈傷だらけのローラ〉のフランス語ヴァージョン〈LOLA〉がカナダ、フランス、スイス、ベルギーで発売され、カナダではヒットチャート第2位にランクされている。なお、この曲で6月の『第4回東京音楽祭』国内大会に出場し、ゴールデン・スター賞を受賞。なお、この『東京音楽祭』には1976年の〈ジャガー〉(3位:23.7万枚)、1978年の〈炎〉(5位:25.7万枚)で世界大会に出場している。10月には、この年開催された『全国縦断コンサート・ツアー』のドキュメンタリー映画『ブロウアップ・ヒデキ(BLOW UP! HIDEKI)』が公開上映され、11月3日に日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演(以降1985年まで11年連続で開催)を行っている。
 そんなスケールの大きなライヴ活動を展開していた秀樹は、セット・リストの中に洋楽のカヴァーを積極的に取り上げており、私がこの連載を始めるきっかけとなったのが、『ヒデキ・オン・ツアー』でフランキー・ヴァリの〈瞳の面影(My Eyes Adored You)〉(1975年、全米1位)を取り上げていたからだったというのは、第一回の連載冒頭で触れたとおりだ。そしてその集大成となったものが、1979年発表の〈YOUNG MAN (Y.M.C.A.) 〉(1位:80.8万枚)で、彼の代表曲となったのはいうまでもない。なお、”Y.M.C.A.”の4文字を全身で表現するボディ・アクションは一世を風靡し、日本中がこのパフォーマンスの虜になった。当時の人気番組「ザ・ベスト・テン」では9週連続第1位ランク、同番組初で唯一の満点(9999点)獲得曲という快挙を成し遂げている。
 この成功により、積極的に洋楽をカヴァーするようになった秀樹は、1980年に〈愛の園〉(7位:23.8万枚/スティーヴィー・ワンダー『シークレット・ライフ』収録曲)、1983年に〈ナイト・ゲーム〉(19位:8.5万枚/グラハム・ボネット)、1984年には郷ひろみと競作になった〈抱きしめてジルバ〉(18位:15.4万枚/ワム!の〈Careless Whisper〉)、1985年はバリー・マニロウからの提供曲〈腕の中へ-In Search of Love-〉(10位:11.2万枚/バリー・マニロウとのデュエット)などを取り上げている。
 そして1981年の〈セクシー・ガール〉(10位:14.2万枚)で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破。同年には、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行うようになっている。1985年1月19日には、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『’85HIDEKI Special in Budokan-for 50 songs-』を開催、それまでリリースした全シングル50曲を全て披露し、ファンを喜ばせた。
 
アイドル 西城秀樹2
 
 1990年代に入ると、1991年にアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ〈走れ正直者〉(作者のさくらももこは秀樹ファン)で、1985年の〈腕の中へ-In Search of Love-〉以来、久々のトップ20ヒット(17位:11.4万枚)を放つ。そして、5月11日にはデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT ’91 FRONTIER ROAD』(東京・厚生年金会館)を開催し、同時期に早稲田大学で秀樹初の学園祭ライヴを実施している。また1995年の阪神大震災の被災者に向けたチャリティー募金活動では、神戸市に積極的に出向き、市民を元気づけたと評判となり、この年の『第46回紅白歌合戦』で〈YOUNG MAN (Y.M.C.A.) 〉を披露した。
 この頃からロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートに参戦、「ロック・アーティストの憧れのスターNo.1」と言われるようになった。そして1997年にはそんなヒデキ大好き若手ミュージシャンが結集して製作した『西城秀樹ROCKトリビュート〜‘KIDS’WANNA ROCK!』が発売された (参加ミュージシャンは、THE HIGH-LOWS、Gackt、ROLLY、サンプラザ中野、ダイヤモンド✩ユカイなど) 。
 
アイドル 西城秀樹3
 
 そんな秀樹だったが、2003年につんくがプロデュースした85枚目のシングル〈粗大ゴミじゃねえ〉発表直後、公演先の韓国で脳梗塞を発症する。その後、闘病生活となるが、懸命のリハビリにより軽度の言語障害の後遺症は残ったが、2006年に3年ぶりのシングル〈めぐり逢い/Same old story-男の生き様〉をリリースし復帰を果たした。しかし、2011年12月20日、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度再入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態など改善され、近年では往年のスターによるオムニバス・コンサート歌謡曲リヴァイバル・ツアー「昭和同窓会コンサート」にも参加するまでに回復している。
 なお2015年4月13日に、60歳に還暦を迎えた秀樹は、記念アルバム『心響-KODOU-』を発売。同日、東京・赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライヴを開催した。またこの還暦を記念した「ハウス食品」のイヴェントで往年の「ヒデキ、カ〜ンゲキィ!!」をもじった「ヒデキ還暦!」に登場。なお、このイヴェントでは、「ヒデキ、カンレキィ〜!」とプリントされた「ハウス・バーモントカレー」が来場者に配布された。また同年秋には全国で〈秀樹還暦ツアー〉が開催され、ファンを喜ばせている。
 
 
アイドル 西城秀樹Live1

『西城秀樹オン・ステージ』
1973年6月15日/RCA/RCA/JRS-7256
国内チャート:5位/6.6万枚
 
①オープニング、② Good Golly Miss Molly(リトル・リチャード:1959)、③Johnny Be Good(チャック・ベリー:1958)、④ママはダンスを踊らない(Your Mama Don’t Dance)(ロギンス & メッシーナ:1972)、⑤Time To Cry(ポール・アンカ:1959)、⑥Blue Suede Shoes(カール・パーキンス:1961)、⑦Try Me(ジェームス・ブラウン:1959)、⑧I Believe In Music(マック・ディヴィス:1971)、⑨恋する季節、⑩恋の約束、⑪チャンスは一度、⑫青春に賭けよう、⑬絶叫、⑭さよならの歌、⑮ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)(アダモ:1969)
 
 このアルバムは、初のトップ20ヒット⑫発売直後の1973年3月26日に大阪毎日ホールで行われた、デビュー1周年記念コンサート「ヒデキ・オン・ステージ」の模様が収録されている。
 渡辺茂樹率いるM.M.P.によるオープニングで幕を開けるこのライヴは、ヒデキのヒット曲よりも、彼のお気に入りの洋楽ナンバーが目白押しとなっている。ソウルフルな②⑦、ロックン・ロールの古典③⑥、また近年のヒット・ナンバー④など、その他シャンソンも含めヴァラエティに富んだチョイスで、ヒデキの幅広い音楽性が反映されている。
 ただそんな洋楽趣味大会で終わらせることなく、最新アルバム『青春に賭けよう』から⑬も収録するなど、単なるシングル・ヒットの寄せ集めに終わらせないといった自負も覗かせている。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
② Good Golly Miss Molly
 ロックン・ロール草創期1955年にデビューしたリトル・リチャードが、1959年に放った代表曲の1つ。この曲におけるシャウト唱法はディープ・パープルのイアン・ギランをはじめ多くのロック・ヴォーカリストに多大な影響を与えた。また彼の足を上げて飛び跳ね、激しいアクションでピアノの鍵盤を叩き上げるプレイ・スタイルは、後のエルトン・ジョンのパフォーマンスにも大きな影響を与えたと言われている。
③Johnny Be Good
 連載第6回[アルテス2014年10月号]の、伊丹幸雄『サチオ ロックミュージカル・オン・ステージ 銀河のカーニバル』②参照
④ママはダンスを踊らない
 1970年代初期を代表するロック・デュオ、ロギンス & メッシーナの最大ヒット曲(1972年、 全米4位)。この曲は1972年に発表されたセカンド・アルバム『ロギンス & メッシーナ』(全米16位)の収録曲で、彼らのブレイクのきっかけとなった。
この曲はエルヴィス・プレスリーが1974年のライヴ・アルバム『As Recored Live on Stage in Memphis』のメドレー・パートで取り上げたのをはじめ、1985年にはY&T、1988年にはポイズンなどハード・ロック・バンドがこぞってカヴァーしており、後者のカヴァーは全米10位の大ヒットを記録している。
⑤Time To Cry
 正式タイトルは〈It’s Time To Cry〉。1956年にデビューしたポール・アンカの1959年のヒット曲(全米4位)。この曲は彼が獲得した11曲あるトップ10ヒットの通算5曲目で、内2曲は全米1位に輝いている。ちなみにその2曲とは、1959年の〈ロンリー・ボーイ〉と1974年の〈二人のきずな( (You’re) Having My Baby)〉(オディア・コーツとのデュエット)だ。
⑥Blue Suede Shoes
 ロックン・ロール初期の立役者の一人であるカール・パーキンスが1956年に発表した代表曲の1つ。全米2位を記録し、カントリー・チャートでは1位(唯一)、R&Bでは3位を獲得している。なお、彼はビートルズもカヴァーした〈マッチボックス〉〈ハニー・ドント〉のオリジネーターでもある。
⑦ Try me
 通称「JB」、また「ファンクの帝王」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」など数多くのニック・ネームを持つジェームス・ブラウンが1959年に発表したセカンド・ヒットで初のR&Bチャートの1位(全米48位)曲。彼のファンク・サウンドにのせてシャウトする独特のスタイルは、その後の音楽シーンに大きな影響を与えた。
なお日本においてJBといえば1992年に日清の「カップヌードルMISO」のCMキャラクターに起用され、本人が歌う「ゲロッパ!」(〈Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine〉の中のフレーズ「Get Up!」の空耳)を「ミソンパ!」というフレーズに置き換え歌うというセルフパロディ的な内容が評判となった。さらに2003年には西田敏行主演映画『ゲロッパ!』(監督:筒井和幸)のタイトルにも採用され、幅広い世代にその存在が知られるようになった。
 余談ながら、学生時代からJBの大ファンだったという俳優柴田恭兵は、1973年初来日公演に駆けつけ、感動のあまり全身に電光が走ったと述べている。
⑧ I Believe In Music
 連載第9回[アルテス2015年4月号]の、キャンディーズ『キャンディーズ10000人カーニバル』⑩参照。
⑮ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)
 連載第8回[アルテス2015年2月号]の、葵てるよし『フレッシュコンサート』③参照。
 
 
アイドル 西城秀樹Live1-2
『リサイタル / ヒデキ・愛・絶叫!』
1974年2月10日/RCA/RCA/JRS-7046
国内チャート:2位/6.8万枚
 
①Love(ジョン・レノン:1970/レターメン:1971)、②Yesterday’s Once More(カーペンターズ:1973)、③ I Believe In Music(マック・ディヴィス:1971)、④孤独の太陽(In My Room)(ザ・ウォーカー・ブラザース:1967)、⑤She Loves You(ザ・ビートルズ:1963)、⑥Love Me Tender(エルヴィス・プレスリー:1959)、⑦Crazy Love(ポール・アンカ:1959)、⑧Try A Little Tenderness(オーティス・レディング:1967/スリー・ドッグ・ナイト:1968)、⑨愛は限りなく(Dio Come Ti Amo)(ドメニコ・モドゥーニョとジリオラ・チンクエッティ:1965)、⑩ダー・ダ・ダ・ダ、⑪Spinning Wheel(ブラッド・スウェット& ティアーズ:1969)、 ⑫(I Can’t Get No) Satisfaction(ザ・ローリング・ストーンズ:1966/ディーヴォ:1978) 、⑬ダンス天国(Land of 1000 Dances)(ウィルソン・ピケット:1967/ ザ・ウォーカー・ブラザース:1968)、⑭ちぎれた愛、⑮恋する季節、⑯恋の約束、⑰チャンスは一度、⑱情熱の嵐、⑲青春に賭けよう、⑳愛の十字架、㉑とどかぬ愛 (Que Je T’ame)(ジョニー・アリディ:1969)、㉒君を忘れない
 
 この2作目のライヴ・アルバムは⑭⑳が連続1位を獲得し、ヒデキが大きく飛躍を遂げたタイミングで開催された東京・郵便貯金ホールでの第2回コンサートを収録したものだ。
 最もヒデキらしいものといえば、ジャケットから連想される⑧⑪⑬といったソウルフルな洋楽カヴァーといえるだろう。それは大先輩の尾崎紀世彦や和田アキ子にも劣らない迫力で、デビュー2年目ながら新人離れしたスケールの大きさを感じさせる。
 またそんなハードなナンバーのみならず、①②④⑥といったバラード・ナンバーで聴かれる抱擁感に溢れた甘いヴォーカルは、すでにアイドル離れした本格派シンガーの姿を予感させている。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
①Love
 連載第7回[アルテス2014年12月号]の、岩崎宏美『ライブ&モア』⑧参照。
②Yesterday’s Once More
 連載第2回[アルテス2014年1月号]の、アグネス・チャン『FLOWER CONCERT』⑬参照。
③ I Believe In Music
 連載第9回[アルテス2015年4月号]の、キャンディーズ『キャンディーズ10000人カーニバル』⑩参照。
④孤独の太陽
 米国生まれのスコット・エンゲル(スコット・ウォーカー)、ゲイリー・リーズ(ゲイリー・ウォーカー)、ジョン・マーズ(ジョン・ウォーカー)の3人で結成されたウォーカー・ブラザースの日本での代表曲の1つ。この曲は1966年に英国で発表したセカンド・アルバム『ポートレイト』のトップに収録されており、日本のみシングル発売され大ヒットを記録している。
 彼らは1965年2月に英フィリップスより〈Pretty Girls Everywhere〉でデビュー、同年発表のセカンド・シングル〈ラヴ・ハー〉が初ヒット(全英20位)、続くサード・シングル〈涙でさようなら(Make It Easy On Yourself)〉は全英1位(全米16位)、翌1966年の〈太陽はもう輝かない(The Sun Ain’t Gonna Shine Anymore)〉も全英1位(全米13位)と大ブレイクした。特に、スコットの人気は凄まじく、ライヴ会場ではファンに衣類を破られるなどもみくちゃにされていた。彼らはイギリスのみならず日本、ヨーロッパ、オセアニア諸国で高い人気を博し、特に日本ではテレビCM(不二家Lookチョコレート)にも登場し、1968年の解散コンサートも日本武道館で開催している。
⑤She Loves You
 ザ・ビートルズが1963年8月に発表した4枚目のシングル。初期シングルでは〈プリーズ・プリーズ・ミー〉や〈抱きしめたい(I Wanna Hold Your Hand)〉などと並び、彼らの人気を世界的に不動としたヒット曲だ。特に日本では、彼らの初主演映画『A Hard Day’s Night』の日本タイトルにこの曲の歌詞を引用して『ビートルズがやってくる!ヤァ!ヤァ!ヤァ!』としたほどで、初期の彼らを代表する曲と言っても過言ではない。補足ながら、この映画の劇中に登場するコンサート・シーンのラスト・ソングだったことでもお馴染みのナンバーだ。
⑥Love Me Tender
 連載第6回[アルテス2014年10月号]、伊藤咲子『初恋 ライブ・オン・ステージ』⑪参照。
⑦Crazy Love
 1958年に発表されたポール・アンカの6枚目のシングルで、全米15位を記録している。
⑧Try A Little Tenderness
 1962年にスタックス・レコードから〈ジーズ・アームズ・オブ・マイン〉のヒット(全米85位:R&B20位)で頭角を現した“ビッグ・オー”ことオーティス・レディングの代表曲の1つ。1965年の〈I’ve Been Loving You Too Long〉(全米21位:R&B2位)〈リスペクト〉(全米35位:R&B4位)などに続く、1967年のヒット曲(全米85位:R&B20位)。この曲は1932年にジミー・キャンベル、レグ・コネリー、ハリー・M.ウッズによって書き下ろされたラヴ・ソングで、翌1968年には1970年代初頭に大ブレイクを果たす7人組バンド、スリー・ドッグ・ナイトのカヴァーも大きな話題(全米29位)をよんだ。
⑩愛は限りなく
 ドメニコ・モドゥーニョが書下ろし、1965年に彼とジリオラ・チンクエッティのデュオでサン・レモ音楽祭に参加し、見事優勝を勝ち取った曲。原題は「ああ、なんてあなたを愛しているんでしょう」という意味のようだ。
⑪Spinning Wheel
 1967年アル・クーパーを中心に結成されたブラス・ロック・グループ、ブラッド・スウェット& ティアーズの代表曲の1つ。この曲は、1968年に『子供は人類の父である(Child Is Father to the Man)』でデビューした彼らが、大幅なメンバー・チェンジを経て、1969年発表したセカンド・アルバム『血と汗と涙(Blood,Sweat&Tears)』の収録曲。新加入のカナダ人ヴォーカリスト、デヴィット・クレイトン・トーマスの書下ろしで、アルバムからのセカンド・シングルとなり、全米2位(R&B45位)の大ヒットを記録した。この曲のブラス・アレンジを担当したサックス奏者のフレッド・リプシウスは1969年のグラミー賞で最優秀アレンジ部門を受賞し、さらにアルバムも最優秀アルバム賞を獲得。
 なおサード・アルバム『BST 3』(1970年)をリリースした直後、1971年初頭に初来日を果たし、日本武道館にて伝説となる素晴らしいパフォーマンスを披露している。
⑫ (I Can’t Get No) Satisfaction
 ザ・ローリング・ストーンズが1965年に発表した初の全米1位(4週間/年間3位)とミリオン・セラーを記録した彼らを世界的なバンドに飛躍するきっかけとなった代表曲の1つ。この原型はキースが寝ている間に思いついたメロディと、ミックが考えたバラードとラップ的なフレーズを合わせた曲で、当初二人はシングル化をこばんでいたという。
 印象的なノイジーなギター・リフは、チャック・ベリーの〈30ディズ〉(1955年)などをヒントに生み出したと言われている。この曲があったからこそ、彼らはビートルズの最大のライヴァル的存在になり、今なお現役バンドとして活動出来ているといっても過言ではないだろう。世代を超えて数多くのカヴァーが存在するが、中でも最も印象的なものは、1978年のオハイオ出身テクノポップ・グループ、ディーヴォによるスカスカで無機質なカヴァーだろう。
 なお、この曲を収録した『アウト・オブ・アワ・ヘッズ(Out Of Our Heads)』も初の全米1位を獲得した。
⑳ダンス天国
 オリジナルは1950年代より活動していた作者クリス・ケナーが1963年に発表したもの(全米77位)。1965年にはカニンバル&ザ・ヘッドハンダースがカヴァーして全米30位を記録。そしてこの曲をエヴァーグリーンな名曲にしたのは1950年代末にゴスペル歌手としてデビューし、シャウトを得意とするソウル・シンガーに転向していたウィルソン・ピケットのカヴァーで、1966年に全米6位(R&B1位)の大ヒットを記録した。
 日本ではザ・ウォーカー・ブラザースが1965年に英国で発表したファースト・アルバム『Take It Easy with the Walker Brothers』に収録されたカヴァーが独自シングルとなり、大ヒットを記録している。ちなみに現在でも多くのCMに採用されるほど人気が高い楽曲として有名だ。
㉑とどかぬ愛
 シルヴィ・ヴァルタンの夫でフランスのプレスリーと称された国民的シンガー、ジョニー・アルディが1969年に発表した代表曲の1つ。本国では9月6 日〜10月18日に7週間1位を記録するほど大ヒットになっている。この曲を収録した同年発表の『Que je t’aime – Palais des congres 69』もフランスでは1位に輝いている。

 
 
アイドル 西城秀樹Live1-3
『リサイタル / 新しい愛への出発』
1975年2月5日/RCA/RCA/JRS-7256
国内チャート:4位/5.7万枚
 
①オープニング、②泣かないで(If You Go Away)(ジャック・ブレル:1966)、③歌のある限り(Keep on Singing)(ヘレン・レディ:1974)、④愛と友情、⑤夢の中へ(井上陽水:1975)、⑥季節のうつり変り、⑦悲しみのアンジー(Angie)(ザ・ローリング・ストーンズ:1973)、⑧Sing(セサミストリート:1972/カーペンターズ:1973)、⑨Try A Little Tenderness(オーティス・レディング:1967/スリー・ドッグ・ナイト:1968)、⑩愛は限りなく(Dio Come Ti Amo)(ドメニコ・モデュグノとジリオラ・チンクエッティ:1965)、⑪運命のテーマ、⑫Roll Over Beethoven(チャック・ベリー:1959/ザ・ビートルズ:1963/マウンテン:1971/エレクトリック・ライト・オーケストラ:1972)、⑬Funky Stuff(クール &ザ・ギャング:1973)、⑭恋の逃亡者(Satisfaction Guaranteed)(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ:1972)、⑮Just Like A Woman(ボブ・ディラン:1968)、⑯Jumpin’ Jack Flash(ザ・ローリング・ストーンズ:1968)、⑰ちぎれた愛、⑱涙と友情、⑲恋する季節、⑳チャンスは一度、㉑ 情熱の嵐、㉒青春に賭けよう、㉓激しい恋、㉔愛の十字架、㉕傷だらけのローラ、㉖この歌をこの愛を
 
 前年のヒット㉕で日本でも有数のシャウト・シンガーとしての地位を決定的にしたヒデキ、そんな彼の「東京芝郵便貯金ホール」で開催した第3回コンサートを収録したものだ。
 ここでもソウル・ナンバー⑨⑬⑭の歌いこなしはさすがで、特に⑨はオリジナルのテディ・ペンダーグラスにも劣らない、ソウルフルでパンチの利いたヴォーカルに圧倒される。さらにエレクトリック・ライト・オーケストラ(以下、ELO)を意識したであろう⑪はゴージャスに仕上げ、ボブ・ディランの⑮もチープ・トリックの〈今夜は帰さない(Clock Strikes Ten)〉風に仕上げるなど聴きごたえは十分だ。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②泣かないで
 原題〈Ne me quitte pas〉。1950年代半ばから1960年代にかけて一世を風靡したシャンソン歌手ジャック・ブレルが発表したシャンソンで、去ろうとする女性に「行かないで」と嘆願する心情が歌われている。彼の作品中、最もインターナショナルなヒットとなっており、同曲は、英題〈If You Go Away〉、ドイツ語では〈Bitte geh nicht fort〉といったタイトルで少なくとも15カ国語以上の訳詞カヴァーがレコーディングされている。
③歌のある限り
 連載第8回[アルテス2015年2月号]の、岡崎友紀『ライヴ! 岡崎友紀 マイ・コンサート』⑨参照。
⑤夢の中へ
 井上陽水が1973年に発表した映画『放課後』(主演:栗田ひろみ)の主題歌で、彼にとって初のヒット曲(17位)となった。後に多くのシンガーにカヴァーされた人気曲で、なかでも人気アイドル斉藤由貴のカヴァー(1983年)はNTVドラマ『湘南物語』の主題歌に採用となり、オリジナル以上の大ヒット(2位)を記録している。
⑦悲しみのアンジー
 ザ・ローリング・ストーンズの幻の来日となってしまった1973年に発売された『羊の頭のスープ(Goats Head Soup)』からの先行シングル。彼らの傑作バラードの1つで、7作目(バラードとしては2作目)の全米1位(全英5位)を記録。当時このタイトルがデヴィット・ボウィーの前妻アンジェラのことを指しているのではないかということでも話題となった。
⑧Sing
 日本ではカーペンターズのヒット曲としてお馴染みだが、元々はアメリカの子供向けテレビ番組『セサミストリート』(abc系列)の挿入歌として歌われていた。カーペンターズは1972年にこの番組に出演時にこの曲を知り、自身でも取り上げ大ヒット(1973年全米3位:A.C.1位)させている。日本でも1973年の洋楽年間チャート7位の大ヒットを記録し、1974年の日本ツアーでは少年少女合唱団を率いて日本語詞で披露している。この時の模様は、音源はCD『ライヴ・イン・ジャパン』(大阪公演、京都少年少女合唱団)、映像はDVD『ライヴ・イン・ジャパン』(東京公演、ひばり児童合唱団)に収録されている。なお同曲は、塩野義製薬の企業イメージCM(2001年)、カルピスのブランドCM(2012年)にも起用されている。
⑨ Try A Little Tenderness
 今回掲載の、『リサイタル / ヒデキ・愛・絶叫!』⑧参照
⑩愛は限りなく
 今回掲載の、『リサイタル / ヒデキ・愛・絶叫!』⑨参照
⑪運命のテーマ
 正式名称〈交響曲第5番 ハ短調 作品67〉。ベートーヴェンの作曲した5番目の交響曲。日本では一般に〈運命〉というタイトルで広まり、クラシック音楽の中でも最も有名な曲の1つとなっている。
⑫Roll Over Beethoven
 ロックン・ロールの古典として知られるこの曲のオリジナルは1956年にチャック・ベリーが自作自演で発表した(全米29位)。イントロで聞かれる独特のギター奏法とギターを弾きながら腰を曲げて歩くパフォーマンス「ダックウォーク」は、ジミー・ペイジをはじめ後のロック・ギタリストに大きな影響を与えている。
1963年にはザ・ビートルズがセカンド・アルバム『ウイズ・ザ・ビートルズ』(全米・日本は『セカンド・アルバム』)に収録し(ヴォーカルはジョージ)、全米ではシングル・カットされ話題(68位)になった。
 日本ではマウンテンが1971年に発表した『悪の華(Flowers of Evil)』収録のライヴ・ヴァージョンが話題となった。その他にも多くのカヴァーが存在するが、1973年には「世界最小オーケストラ」と称されたELOが、イントロにベートーヴェンの〈運命〉の前奏メロディを引用した印象的なカヴァーを発表し、全英6位(全米42位)を記録した。このカヴァーは彼らのセカンド・アルバム『ELO 2』に収録されている。
⑬Funky Stuff
 1970〜1980年代にかけてファンクのトップ・グループとして活躍したバンド、クール&ザ・ギャングの代表曲の1つ。この曲は1973年の第7作『Wild And Peaceful』(全米33位)収録曲で、ファースト・シングルとして同年に彼ら自身初の大ヒット(全米29位:R&B5位)を記録。
 彼らはロバート“クール”・ベルとロナルド・ベル兄弟を中心に1964年にジャジーアックスとして結成、1968年にはクール&ザ・ギャングと改名。そして1969年にインディーズ・レーベル「De-Lite」から『クール&ザ・ギャング』(R&B43位)でデビューしている。
⑭恋の逃亡者
 1960年代から活動する名門コーラス・グループ、ザ・ブルー・ノーツが、1974年に発表した通算19作目のシングルで、全米58位(R&B6位)を記録。この曲の印象的なイントロは山口百恵の第6作〈ちっぽけな感傷〉(1974年、3位)にもサンプリングされた雰囲気がある。
 同曲は1972年に名プロデューサー、ギャンブル&ハフの率いるPhiladelphia International(以下、フィリー)に移籍後、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツとして再スタートを切った1973年にフィリーのセカンド・アルバム(通算5作目)『ブラック&ブルー』(全米57位:R&B5位)の収録曲。リード・シンガーは後にセックス・シンボルとして名高いテディ・ペンダーグラス。
 なお彼らは1976年までのフィリー在籍5年間に、〈If You Don’t Know Me By Now〉 (1972年、全米3位:R&B1位)、〈I Miss You〉(1972年、全米58位:R&B7位)、〈The Love I Lost〉(1973年、全米3位:R&B1位)などミリオン・セラーを含む数多くのヒットを生み出した。
⑮Just Like A Woman
 1962年3月に『ボブ・ディラン』でデビューしたボブ・ディランが1966年に発表した第4作『ブロンド・オン・ブロンド』収録曲で、12枚目のシングルとなり全米33位を記録した。この1965年に書かれたこのバラードは、一般にフォーク・シンガー、ジョーン・バエズのことを歌ったとも言われている。
 以後ライヴの定番ソングとなり、中でも1971年のジョージ・ハリソンがバングラ・デッシュの難民救済を呼びかけ開催した『バングラ・デッシュのコンサート(The Concert for Bangla Desh)』でのパフォーマンスは同コンサートのハイライトとして語り継がれている。
⑯Jumpin’ Jack Flash
 連載第11回[アルテス2015年7月号]の、郷ひろみ『フォーリーブス・郷ひろみ / ジョイントリサイタル』㉕参照。
 
 
アイドル 西城秀樹Live1-4
『ヒデキ・オン・ツアー』
1975年6月25日/RCA/RCA/JRX-8017〜8
国内チャート:2位/4.7万枚
 
①オープニング、②ブロー・アップ・マン、③愛を求めて、④恋の暴走、⑤Get Dancing(ディスコ・テック&セックス・オー・レターズ:1974)、⑥瞳の面影(My Eyes Adored You)(フランキー・ヴァリ:1976)⑦港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド:1975)、⑧激しい恋、⑨ケニーのバンプ(The Bump)(ケニー:1975)、⑩青春に賭けよう、⑪情熱の嵐、⑫ダイアナ(ポール・アンカ:1959)、⑬Blue Suede Shoes(カール・パーキンス:1961)、⑭朝日のあたる家(The House of The Rising Sun)(ボブ・ディラン:1962/アニマルズ:1965/フリジド・ピンク:1971/ジョーディー:1973)、⑮S.O.S.(エアロスミス:1974)、⑯Heartbreaker(グランド・ファンク・レイルロード:1971)、⑰この愛のときめき、⑱傷だらけのローラ(フランス語)、⑲この愛の終るとき(Comme Si Je Devais Mourir Demain)(ジョニー・アリディ:1972)、⑳明日への愛〜グッド・バイ・ガールズ
 
 このライヴは1975年に敢行されたヒデキ初の全国縦断コンサートを収録したもので、演奏はふじ丸バンド(後のShogun)とザ・ダーツ、編曲は惣領泰則が担当している。彼のライヴ・アルバムでは最高位(2位)にランクされ、ビデオも発売されるなど、これまで以上に“ヒデキ・ワールド”を全国に知らしめた。
 ここでのハイライトは、冒頭でも紹介した吉野藤丸とのデュエットで歌い上げる②だ。これが聴けるだけでもこのアルバムを持っている価値は十分ある。さらにファンをステージに上げてのダンス大会となる⑨、続く⑩ではそのステージ上のファンとのデュエットが会場内の大合唱を引き起こし、広い会場が一体となるグルーヴはヒデキ・ライヴの真骨頂だ。個人的な意見であるが、このようなヒデキの上昇機運を感じさせる時期のアルバムは、是非コンプリートのCD化を望みたいところだ。
 そしてほとばしるエネルギーが発散する洋楽カヴァー⑬⑮⑯はヒデキらしさが全開で、エアロスミスの初期ナンバー⑮のチョイスは彼のセンスの良さも伝わってくる。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
⑤Get Dancing
 フォーシーズンズなどのプロデューサーとして知られるボブ・クリューが手がけた覆面グループ、ディスコ・テック&セックス・オー・レターズのデビュー曲であり代表曲(全米10位)。この曲はこのグループのセッションにも加わったシンガー・ソングライター(以下、S.S.W.)、ケニー・ノーランの書下ろしだった。
⑥瞳の面影
 1960年代のアメリカを代表するポップ・グループ、フォーシーズンズのリード・ヴォーカリスト、フランキー・ヴァリがソロとして初の全米1位(1976年)を獲得したナンバー。作者はラベルのヒット曲〈レディ・ママレード〉や、自身でも〈夢のバラード(I Like Dreamin’)〉の全米1位ヒットを持つS.S.W.ケニー・ノーラン。
なお、この曲はフォーシーズンズの自伝的ミュージカル『ジャージイー・ボーイズ』の挿入歌でもある。
⑦港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ
 1974年〈知らず知らずのうちに〉でデビューしたダウン・タウン・ブギウギ・バンドが、1975年4月20日に発売した4作目のシングル。発売当初は〈カッコマン・ブギ〉のB面曲だったが、後にA面となり同年6月23日から5週連続1位を獲得(年間5位)し、第17回日本レコード大賞の企画賞を受賞した。そして大晦日の『第26回NHK紅白歌合戦』に初出場しこの曲を歌っている。
⑨ケニーのバンプ(The Bump)
 名プロデューサー、ミッキー・モストに見出されたアイルランド出身のトニー・ケニー率いるケニーが、1974年に発表したサード・シングルで最大ヒット(全英3位)。ちなみにこの曲のオリジナルはベイ・シティー・ローラーズが同年発表した〈All of Me Loves All of You〉(全英4位)のカップリング曲だった。
 なお彼らは、1973〜76年まで〈ハート・オブ・ストーン〉(73年:全英11位:ザ・サンズ&ザ・バンパイヤーズ名義)、〈ファンシー・パンツ〉(75年:全英4位)をはじめ6曲のトップ40ヒットを放っている。
⑫ダイアナ
 カナダ出身のポール・アンカが1957年(14歳)に発表したデビュー曲で代表曲の1つ。この曲は自分の弟のベビー・シッターへの思いを綴ったもの。発売後カナダでトップにランクされ、全米2位でも記録するなど、当時カナダ人シンガーで最も売れたシングルの1つとなった。
なお、彼はニ―ル・セダカなどとならび、ティン・パン・アレイを中心とした“ポップス創世記”の草分け的存在だが、現在もマイケル・ジャクソンの遺作『This Is It』を共作するなどバリバリの現役だ。
⑬Blue Suede Shoes
 今回掲載の、『西城秀樹オン・ステージ』⑥参照
⑭朝日のあたる家
 1930年代に作られた作者不詳のトラディショナル・フォーク・バラードで、1941年にウディ・ガスリー、1960年にはジョーン・バエズがレコーディングを残している。その後、1962年にボブ・ディランが、デビュー・アルバム『ボブ・ディラン』で取り上げ、1964年にはイギリスのアニマルズのカヴァーが3週連続全米1位の大ヒットとなり、一般に知られるようになった。さらに、1970年にはデトロイト出身のバンド、フリジッド・ピンクのカヴァーが全米7位、全英4位の大ヒット(西ドイツ、ノルウェーでは1位)を記録した。
 日本ではGS時代のモップスの鈴木ヒロミツや、後にAC/DCに加入するブライアン・ジョンソンが加入していたジョーディーのカヴァーでもよく知られている。
⑮S.O.S.
 アメリカン・ハード・ロックの大御所バンド、エアロスミスのセカンド・アルバム『飛べ! エアロスミス(Get Your Wings)』(1974年)の収録曲で、サード・シングルとして発表された曲。
 ちなみに、この当時のエアロスミスはブレイク直前で、1973年のファースト・アルバム『野獣誕生(Aerosmith)』は日本未発売で、このアルバムが本邦デビュー作だった。
⑯Heartbreaker
 連載第1回[アルテス2013年11月号]の、あいざき進也『ジャンプ・オン・ステージ』①参照。
⑲この愛の終るとき
フランスのヒットメーカー、ジャン・ピエール・ラングとパトリック・ルメートルの書きおろし。1972年6月に発表のジョニー・アリディのアルバム『Country, Folk, Rock』の収録曲で、アルバムからのファースト・シングルとなった。翌年、日本フィリップスより発売されたLPにはこの曲のタイトルが邦題となって発売されている。
 
 
アイドル 西條秀樹Live1-5
『MEMORY-20歳の日記』
1976年2月5日/RCA/RCA/JRX-8029〜30
国内チャート:6位/4.2万枚
 
①オープニング:〜バッハのトッカータ、②翼があれば、③至上の愛、④海辺の駅へ、⑤泣かないで(If You Go Away)(ジャック・ブレル:1966)、⑥夕やけ雲、⑦カモン・ベイビー、⑧ファンキー・モンキー・ベイビー(キャロル:1973)、⑨That’s The Way(K.C.&ザ・サンシャイン・バンド:1976)、⑩Try a Little Tenderness(オーティス・レディング:1967/スリー・ドッグ・ナイト:1968)、⑪ケ・サラ-Che Sara-(ホセ・フェリシアーノ:1972)
 
 このアルバムは1枚目がスタジオ作、2枚目を1975年11月3日に開催された日本のソロ歌手初の日本武道館公演を収録した変則アルバムだ。
 ライヴの前半はゆったりとした雰囲気で進行しているが、後半はヒデキらしいほとばしるエネルギーが全開のステージになっている。それはキャロルを彷彿させる藤丸とのコンビネーションが冴える⑧、また〈激しい恋〉の元ネタ風の⑨では、オリジナルよりファンキーに歌い上げ、彼らしさをより前面に打ち出している。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
⑤泣かないで
 今回掲載の、『リサイタル / 新しい愛への出発』②参照
⑧ファンキー・モンキー・ベイビー
 1972年フジ・テレビの『リヴ・ヤング』で衝撃に登場した矢沢永吉率いるキャロル。音楽面だけでなく、革ジャンにリーゼントというザ・ビートルズのハンブルグ時代を連想させるファッションも注目された。
 彼らは1973年にフィリップスより〈ルイジアンナ〉(83位:1万枚)をリリース、その後シングル5ヶ月連続リリースというセンセーショナルなデビューを果たしている。そして、この曲は1973年6月25日に発表した7作目のシングルで最大ヒット曲(57位:8.3万枚)となった。
 また彼らのライヴには、舘ひろし率いるクールズが(アメリカのヘルス・エンジェルスの如く)親衛隊として取り仕切っていたことでも有名だ。
⑨That’s The Way
 マイアミ・サウンドを牽引したフロリダを拠点とするT.K.レコードのハウス・バンドだったK.C.&ザ・サンシャイン・バンドを代表するヒット曲の1つ。
 彼らは1973年にハリー・ウェイン・ケイシー(KC)とリチャード・フィンチを中心に結成された白人・黒人混成バンドで、同年〈Blow Your Whistle〉(R&B27位)でデビューを飾った。
 この曲は1975年にセカンド・アルバム『K.C.&ザ・サンシャイン・バンド』(全米4位/R&B1位)からのセカンド・シングル(全米1位/R&B1位)。当時、ライヴでこの曲を演奏する際にホーン・セクションが見せた管楽器を振り回すパフォーマンスは大いに話題となった。
 余談ながら、ウルフルズの代表曲〈ガッツだぜ!〉はこの曲の「空耳」から出来たとトータス松本は語っている。
⑩Try a Little Tenderness
 今回掲載の、『リサイタル / ヒデキ・愛・絶叫!』⑧参照
⑪ケ・サラ-Che Sara-
 イタリア人のジミー・フォンタナとフランコ・ミギリアッチによって書き下ろされた1971年のサン・レモ音楽祭出品曲。一般には盲目の天才歌手ホセ・フェリシアーノでよく知られており、英・米国では未チャートながら、スペイン、スウェーデン、オーストリアでは1位、オランダ2位で記録。日本でも日本語詞版が発売されるほど、評判となった。

 
 
アイドル 西城秀樹Live1-6
『HIDEKI LIVE’76』
1977年2月5日/RCA/RCA/RVL-2003〜4
国内チャート:12位/2.8万枚
 
①オープニング、②大空へ、③夜のストレンジャー(Stranger In The Night)(フランク・シナトラ:1966/ベット・ミドラー:1973)、④愛のフィーリング(Feelings)(モリス・アルバート:1975)、⑤愛のいたわり、⑥愛ある出発、⑦誰もいない海、⑧ワインで別れよう、⑨ナタリー(Umberto Balsamo:1975)、⑩アフリカン・シンフォニー(ヴァン・マッコイ:1974)、⑪希望の炎(Jesus Is Just Alright)(ザ・ドゥービー・ブラザース:1973)、⑫心のラヴ・ソング(Silly Love Song)(ポール・マッカートニー&ザ・ウィングス:1976)、⑬恋は異なもの(What a Diffrence a Day Makes)(ダイナ・ワシントン:1959/エスター・フィリップス:1975)、⑭激しい恋、⑮君よ抱かれて熱くなれ、⑯若き獅子たちの肖像、⑰若き獅子たち、⑱傷だらけのローラ、⑲Without You(バッドフィンガー:1971/ニルソン:1971)、⑳明日という日に…、㉑GOOD,GOOD-BYE
 
 これは1976年11月3日に開催されたヒデキ2回目の日本武道館公演だ。ドラマチックなナンバーで幕を開けるこのライヴは、ジャケット写真に象徴されるようなエンタテナーに徹した甘い魅力にポイントをおいたステージといった印象だ。それを印象するものが洋楽カヴァーの④⑨⑬や、近作アルバム(『愛と情熱の青春』)収録の⑤⑥あたりだろう。
 もちろん武道館というキャパにあわせたスケールの大きなヒデキ・スタイルも健在で、アップ・テンポにアレンジしたスタンダードの③や「藤丸バンドFeaturing秀樹」といった趣の⑪⑫、そしてお約束の大ヒット曲⑭⑱などで、大観衆の観客に期待にしっかり応えている。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
③夜のストレンジャー
 元々はベルト・ケンプフェルトが映画『ダイヤモンド作戦(A Man Could Get Killed)』の挿入歌として〈Beddy Bye〉なるタイトルで書き下ろしたインストだった。この曲を有名にしたのは1966年に“ザ・ヴォイス” フランク・シナトラが英詞のついた曲をアーニー・フリーマンのアレンジ(ドラムスにハル・ブレイン、ギターにグレン・キャンベル参加)で歌い全米・全英1位を獲得してからだ。
 同年には同タイトルのアルバムも発表され、こちらも全米1位を獲得し、シナトラにとってシングル・アルバムともに最も商業的に成功したアルバムとなった。なお1966年の第9回グラミー賞で「最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞」と「最優秀レコード賞」を受賞し、さらにアーニー・フリーマンに「最優秀ヴォーカルないしインストゥルメンタリスト伴奏編曲賞」をもたらした。
 この曲は短期間にスタンダード・ナンバーとなり、シナトラ盤の発表から1年以内に200件以上のカヴァーが生まれている。さらに1976年にはベット・ドラーがサード・アルバム『ベット・ミドラー3(Songs for the New Depression)』にディスコ・ヴァージョンを収録し、大きな反響をよんだ。
⑨ナタリー
 1971年〈Piangerei〉でデビューしたイタリアのシンガー・ソングライターUmberto Balsamoが、1975年に発表した10作目のシングルで彼の代表曲の1つ。この曲はセカンド・アルバムのタイトル曲にもなっている。
⑩アフリカン・シンフォニー
 スタイリスティクスのアレンジャーとして知られるヴァン・マッコイ自身が結成したソウル・シティ・シンフォニー(当時日本では「スタイリスティック・オーケストラ」と命名されていた)のファースト・アルバム『ラブ・イズ・ジ・アンサー』(1974年)収録曲。
 1975年にヘンリー・マンシーニが『シンフォニック・ソウル』でカヴァー、1977年には日本編集の『ニュー・サウンズ・イン・ブラス第5集』(編曲:岩井 直溥)に収録され、吹奏楽曲として認知された。
 そして、この曲がより広く知られるようになったのは、1987年(第69回)夏の全国野球選手権に初出場した智弁和歌山高校が応援歌として採用した事だった。以後、同校が強豪校になったのを機に、多くの学校が取り入れ、今や出場校の90%以上が応援歌として採用するという人気曲になっている。
⑪希望の炎
 1970年代を代表するアメリカン・ロック・バンド、ザ・ドゥービー・ブラザース(以下、ドゥービー)のセカンド・アルバム『トゥールーズ・ストリート』(1973年)に収録曲で、アルバムからのセカンド・シングル(全米35位)。この曲は1960年代を代表するアメリカン・バンド、ザ・バーズが1969年に発表した第8作『イージーライダーのバラード』にも収録されていた。そしてこの曲のオリジナルはゴスペル・シンガー、アーサー・レイド・レイノルズが彼自身の率いるザ・アート・レイノルズ・シンガーズの1966年に発表したファースト・アルバム『Tellin’ It Like It Is.』に書き下ろしたものだった。
 ドゥービーはこのアルバムからのファースト・シングル〈リッスン・トゥ・ザ・ミュージック〉の大ヒット(全米11位)で、グループは一躍全米の人気バンドとなっている。
⑫心のラヴ・ソング
 ポール・マッカートニー率いるウィングスが1976年に発表した通算14作目のシングルで5週間全米1位に輝いた大ヒット(年間ランク1位)。この曲はウィングス通算5作目となる『スピード・オブ・サウンド』からのファースト・シングルだった。
この曲によって、ポール・マッカートニーは元ザ・ビートルズという呪縛から解き放され、ウィングスのポール・マッカートニーという存在を世間に公認させた。
⑬恋は異なもの
 この曲はメキシコ人S.S.W.、マリア・グレーヴァーによってスペイン語で書かれたものがオリジナル。1934年にスタンリー・アダムスによって英語詞が付けられ、ハリー・ロイ&彼のオーケストラによって演奏された。
 そして、1959年にはブルースの女王ダイナ・ワシントンが歌って全米8位(R&B4位)の大ヒットとなり、彼女はこの曲で「最優秀リズム&ブルース」、「パフォーマンス」の部門でグラミー賞を受賞している。その後も、多くのシンガーに歌い継がれているスタンダード・ナンバーだ。元々の邦題は〈縁は異なもの〉だったが、1975年にエスター・フィリップスがディスコ・アレンジで全米20位(R&B10位)のヒットを記録した際の邦題は〈恋は異なもの〉だった。
⑲Without You
連載第2回[アルテス2014年1月号]の、アグネス・チャン『FLOWER CONCERT』㉓参照。
 
☆『わが青春の北壁』1977年12月20日 ※日生劇場での初ミュージカル収録
 
 
アイドル 西城秀樹Live1-7
『バレンタインコンサート・スペシャル / 愛を歌う』
1978年6月25日/RCA/RCA/RVL-2003〜4
国内チャート:22位/2.0万枚
 
①オーバーチュア、②マイ・ファニー・バレンタイン(1937/ジュディー・ガーランド:1939/フランク・シナトラ:1945/チェット・ベイカー:1954)、③夜のストレンジャー(Stranger In The Night)(フランク・シナトラ:1968/ベット・ミドラー:1974)、④カタログ、⑤ロマンス(ナレーション)、⑥ラストシーン、⑦この愛のときめき、⑧ナタリー(Umberto Balsamo:1975)、⑨愛は限りなく、⑩ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン(ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス:1967/ヴァニラ・ファッジ:1968/ロッド・スチュワート:1978)、⑪心のラヴ・ソング(Silly Love Song)(ポール・マッカートニー&ザ・ウィングス:1976)、⑫ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)(アダモ:1969) 、⑬ブーツをぬいで朝食を、⑭青春に賭けよう、⑮君よ抱かれて熱くなれ、⑯傷だらけのローラ、⑰セイル・アウェイ(ランディ・ニューマン:1971)、⑱若き獅子たち、⑲お休み(井上陽水:1973)
 
 1978年2月14日に日比谷公会堂で「新日本フィルハーモニー」との初共演ライヴ。前作にも収録された②③は今回のオーケストラとの共演で、更に磨きがかかった魅力的なナンバーに仕上げられている。ただ個人的に気になるのは、シュープリームスのテイクをベースにした⑩で、もしこの時点でロッド・スチュワートの『明日へのキック・オフ(Foot Loose And Fancy Free)』(1978年)収録のカヴァーを聴いていたとしたら、彼がどのようにチャレンジしたのか気になるところだ。そして⑰のような、マニア好みする曲をチョイスしているセンスにも好感が持てる。
 こんな贅沢なライヴの中でファンとの一体感を強く感じさせてくれるパートといえば、ヒデキの歌と共に会場内のファンの大合唱が始まる定番曲⑭だろう。余談ながら、この曲はアカペラでも歌われることもあるヒデキのお気に入りナンバーだ。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②マイ・ファニー・バレンタイン
 1937年にリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートにより書き上げられミュージカル『ベイブス・イン・アームス』で発表されたジャズ・スタンダードの代表的な楽曲の1つ。2年後に映画化され、そこではジュディー・ガーランドが歌っている。
 このナンバーは、『チェット・ベイカー・シングス』(1954年)『ソング・フォー・ヤング・ラヴァーズ/フランク・シナトラ』(1945年)などで聴かれる男性ヴァージョンの人気が高い。またヴォーカル以外でも、1964年に発表されたマイルス・ディヴィスによるインスト・ヴァージョンのようなカヴァーの名演奏も多い。
③夜のストレンジャー
 今回掲載の、『HIDEKI LIVE’76』 ③参照
⑧ナタリー
 今回掲載の、『HIDEKI LIVE’76』 ⑨参照
⑩ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン
 連載第1回[アルテス2013年11月号]の、あいざき進也『ジャンプ・オン・ステージ』①参照。
⑪心のラヴ・ソング
 今回掲載の、『HIDEKI LIVE’76』 ⑫参照
⑫ヘイ・ジュテーム
 本連載第8回[アルテス2015年2月号]の、葵てるよし『フレッシュコンサート』③参照。
⑰セイル・アウェイ
 1968年に『ランディ・ニューマン』でデビューしたアメリカのS.S.W.ランディ・ニューマンが1972年に発表した第4作のタイトル曲。ちなみに彼が注目されるきっかけとなったのは1970年のセカンド・アルバム『12 Songs』に収録された〈ママ・トールド・ミー〉が、同年スリー・ドッグ・ナイトに取り上げられ、全米1位となったことによる。
 そんなニューマンは、当時この曲をヒットさせたスリー・ドッグ・ナイトに「君たちのおかげで息子を大学に行かせることができた」とお礼の連絡を入れたという。
⑲お休み(おやすみ)
 井上陽水が1973年12月1日に発表したサード・アルバム『氷の世界』のラストに収められた小品。なおこのアルバムは、100週以上トップ10圏内に留まり、2年後に日本初のミリオン・セラーを記録している。2013年には40th Anniversary Special Editionが発売され、話題をよんだ。

 
 
アイドル 西城秀樹Live1-8
『BIG GAME’78 HIDEKI』
1978年9月25日/RCA/RCA/RVL-2055〜6
国内チャート:15位/2.5万枚
 
①オーバー・チュア、②フール・フォー・ザ・シティ(フォガット:1976)、③スロー・ライド(フォガット:1977)、④ドント・レット・ミー・ダウン(ザ・ビートルズ:1969)、⑤朝日のあたる家(ボブ・ディラン:1962/アニマルズ:1965/フリジド・ピンク:1971/ジョーディー:1973)、⑥コパカパーナ(Copacabana (At The Copa) )(バリー・マニロウ:1978)、⑦哀しい愛の別離(Some Another Time)(アラン・パーソン・プロジェクト:1977)、⑧ラブ・ミー・テンダー(エルヴィス・プレスリー:1959)、⑨ラストシーン、⑩ナタリー(Umberto Balsamo:1975)、⑪ヘイ・ジュテーム(アダモ:1969)、⑫ユー・シュッド・ビー・ダンシン(ビージーズ:1978)、⑬スティン・アライブ(ビージーズ:1978)、⑭ブルースカイブルー、⑮炎、⑯激しい恋、⑰青春に賭けよう、⑱君よ抱かれて熱くなれ、⑲傷だらけのローラ、⑳アイ・シャル・ビー・リリースト(ザ・バンド:1968)、㉑セクシー・キャッツ(矢沢永吉:1975)、㉒恋の列車はリバプール発(矢沢永吉:1975)、㉓セイリング(サザーランド・ブラザース・バンド:1972/ロッド・スチュワート:1974)
 
 1978年の7月22日に後楽園球場、8月16日ナゴヤ球場、8月26日大阪球場で開催された第1回スタジアム・コンサート・ツアー「BIG GAME’78 HIDEKI」から。派手な爆竹音がけたたましく響き渡るオープニングに合わせ、勢いよく登場するヒデキの歌い始めは、当時全米人気の高かったブギ・バンド、フォガットのナンバー。ここでもバック・バンドU.F.O.を率いる吉野藤丸のギター・プレイは冴え渡り、ヒデキとのコンビネーションは抜群だ。まさにスタジアム・ライヴというビッグ・スケールにふさわしいステージを展開している。
 注目は当時大ブレイクしていたサンタ・エスメラルダのテイクをベースにした⑤(シングル〈悲しき願い (Don’t Let Me Be Misunderstood) 〉のカップリング)で、流行に敏感なヒデキのアンテナの鋭さを象徴している。又、ドラマチックに歌いあげるアラン・パーソンズ・プロジェクトの神秘的な⑦も選曲センスの良さを伺わせているなど、ここでのパフォーマンスは正にヒデキ・ライヴの集大成といった雰囲気が感じられる。
 なお彼のライヴ・アルバムには、常に評論家の寸評が掲載されているが、今回は重鎮福田一郎氏によるものだった。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②フール・フォー・ザ・シティ
 イギリスのブルース・ロック・バンド、サヴォイ・ブラウンの元メンバーらによって1971年に結成され、1972年デビューしたフォガットが1975年に発表した第5作『Fool for the City』のタイトル曲。翌、1976年にはシングル・カットされ45位を記録。
 彼らの最大ヒット作となった1977年の『ライヴ』(全米11位)でもオープニングを飾っている。
③スロー・ライド
 フォガットの1975年発表の第5作『Fool for the City』収録曲で、ファースト・シングルとして全米20位を記録した彼らの最大ヒット曲。なおアルバム・ヴァージョンは8分14秒で収録されているが、シングルは3分56秒に編集されている。この曲は彼らのライヴ定番で、1977年発表の『ライヴ』ではアルバム収録並みの8分21秒に渡るプレイが披露されている。
④ドント・レット・ミー・ダウン
 ザ・ビートルズが1969年にアップルでの第2作(通算19作)として発表した〈ゲット・バック〉(全米・全英1位)のB面曲。この曲はザ・ビートルズが原点回帰を意識してスタートした『ゲット・バック・セッション』にジョン・レノンが持ち込んだ曲で、オノ・ヨーコに捧げたバラード作品。
このセッションの目玉となった1969年1月30日にアップル本社の屋上で敢行されたライヴ(「ルーフトップ・コンサート」)でも演奏されている。このセッションをまとめた1970年のオリジナル・アルバム『レット・イット・ビー』には収録されなかったが、このアルバムを再構築した2003年の『レット・イット・ビー(ネイキッド)』に収録された。
⑤朝日のあたる家
 今回掲載の『ヒデキ・オン・ツアー』⑨参照
⑥コパカパーナ
 連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ラブ・コンサート・パート2〜ふたりのための愛の詩集〜』①参照。
⑦哀しい愛の別離
 アラン・パーソンズ・プロジェクトの1977年発表のセカンド・アルバム『アイ・ロボット』(全米9位:全英30位)に収録されたバラード。このユニットはザ・ビートルズやピンク・フロイドなどの作品でエンジニア(アビー・ロード・スタジオ)を手掛けてきたアラン・パーソンが、ヴォーカリストのエリック・ウールフソンと1975年に立ち上げたものだった。
⑧ラブ・ミー・テンダー
 連載第6回[アルテス2014年10月号]の、伊藤咲子『初恋 ライブ・オン。ステージ』⑪参照。
⑩ナタリー
 今回掲載の、『HIDEKI LIVE’76』 ⑨参照
⑪ヘイ・ジュテーム
 本連載第8回[アルテス2015年2月号]の葵てるよし『フレッシュコンサート』③参照。
⑫ユー・シュッド・ビー・ダンシン
 ディスコブームに乗り、全米で大ヒットした1975年の第12作『メインコース』に続き、ダンスナンバーを中心とするコンテンポラリー路線をさらに拡大させた第13作『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』からのファースト・シングル。彼らにとって3曲目の全米1位獲得曲であり、R&Bチャートに初ランク曲(4位)で、翌1977年の映画『サタディ・ナイト・フィーヴァー』に繋がる記念すべきナンバーとなった。
⑬スティン・アライヴ
 ビージーズの存在をより幅広い世代に知らしめた1977年の映画『サタディ・ナイト・フィーヴァー』からのセカンド・シングル。ギブ3兄弟の書き下ろしで、彼らにとって〈愛はきらめきの中に〉に続く5曲目の全米1位獲得曲となった。なお、このアルバムからは4曲の全米1位が誕生した。
 余談ながら、この曲は米イリノイ大学医学部の研究チームの発見で心臓発作を起こして倒れた人に行う胸骨圧迫 (心臓マッサージ)の速さを覚えるサンプルとして推奨されている。それは胸骨圧迫の速さは100/分が基本で、この曲の平均のテンポがその速さにほぼ近い103/分ということによる。
⑳アイ・シャル・ビー・リリースト
 ボブ・ディランが交通事故で重傷を負って休養していた1967年秋にウッドストックの「ビッグ・ピンク」と呼ばれる家の地下室で、ザ・ホークス(後のザ・バンド)の伴奏によってレコーディングされた曲。
 なおこの曲を最初に公式リリースしたのはザ・バンドで、1968年に発表したデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』に収録された。ヴォーカルは、ピアノ担当のリチャード・マニュエルで、彼のファルセットを効果的に使っており名唱とされ、ザ・バンドの代表作としての彼らのイメージを強めることになった。
 ちなみに作者のボブ・ディランによるものは長らく海賊版でしか聴くことができなかったが、1991年の『ブートレッグ・シリーズ第1〜3集』で公式にリリースされた。
㉑セクシー・キャッツ、㉒恋の列車はリバプール発
 キャロル解散後の1975年に矢沢永吉が発表したソロ・デビュー・アルバム『アイ・ラヴ・ユー、OK』の収録曲。作詞は誤値となっており、木原敏雄と共に、初期矢沢バンドに在籍し、後にNobodyを結成する相沢行夫。
㉓セイリング
 フェイセス解散後の1975年にロッド・スチュワートが発表した通算第6作『アトランティック・クロッシング』(全英1位:全米9位)の収録曲で、アルバムからのファースト・シングル。この曲は全米の反応は鈍かった(全米58位)ものの、全英では通算4曲目の1位に輝き、日本でも多くのシンガーがカヴァーするなど、ロッドを代表するバラードの1つとなっている。
 なおオリジナルはサザーランド・ブラザース・バンドが1972年に発表した『Lifeboat』に収録されている
 
 
アイドル 西城秀樹Live1-9
『永遠の愛・7章』
1979年2月25日/RCA/RCA/RVL-7210
国内チャート:11位/2.4万枚
 
①Love is Beautifull、②君よ抱かれて熱くなれ、③Sweet Half Moon、④その愛は、⑤ラストシーン、⑥哀愁トゥナイト(桑名正博:1973)、⑦さよならだけは言わないで(五輪真弓:1976)、⑧わかって下さい(因幡晃:1976)、⑨帰らざる日々(アリス:1974)、⑩ブルースカイブルー(ナレーション入り)
 
 1978年11月3日の日本武道館のライヴで、ヒデキにしては珍しく当時リリースされたばかりのオリジナル・アルバム『ファースト・フライト』の収録曲(①③④、内③④は秀樹の書下ろし)を大きくフューチャーしたものだ。この新作は吉野藤丸とヒデキ初の共同作業によるアルバムというということで、プロモーションを兼ねたライヴといった趣向になっており、当然ながらヒット曲や洋楽カヴァーも抑えられている。
 その新曲の中での注目は藤丸作による①で、1980年代以降のヒデキを彷彿させるAOR調の好ナンバーだ。また和物カヴァーで桑名正博の⑥はオリジナルを意識したであろうソロ・ギターが印象的だ。
 しかし、これまで最良のパートナーだった藤丸がこの年にOne Line Band(翌年Shogunに改名)を結成するため独立。残念ながらこの充実した二人の共演はこのアルバムが最後になってしまった。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
⑥哀愁トゥナイト
 1971年〈スウィート・ホーム大阪〉でデビューしたファニー・カンパニーのメンバーだった桑名正博がソロに転向し、初めて職業作家の筒美京平と組んだことで話題となったナンバー。この曲は1973年に発表したセカンド・アルバム・タイトル曲で、エンディングで聴かれる高中正義のギター・ソロは最高のロック・ギターが炸裂している。ちなみにこの曲の編曲を担当した萩田光雄氏曰く「彼にはやりたいようにやらせた」とのことだった。
⑦さよならだけは言わないで
 1971年に〈少女〉でセンセーショナルなデビューを果たした五輪真弓が、1976年に発表した初トップ20入り(13位)を果たした第7作目のシングル。
⑧わかって下さい
 1976年のヤマハ・ポピュラー・コンテスト(通称:ポプコン)でグランプリを受賞した岩手出身の因幡晃のデビュー曲で、彼の代表曲(3位:65.6万枚)となった。
彼の楽曲には、シャンソンのテイストが強く感じられ、この曲は「フランス語」盤も発表されている。
⑨帰らざる日々
 1971年〈帰っておいで恋人よ〉でデビューしたアリスが、初のトップ20ヒットとなった1973年の〈今はもう誰も〉(11位:28.8万枚)に続き、1974年に発表した6枚目のシングル。
 この曲も連続のトップ20ヒット(15位:31.9万枚)を記録し、彼らはこの一連のヒットを機にフォーク界においてトップ・グループの頂点を登って行くことになる。

 
 
アイドル 西城秀樹Live1-10
『BIG GAME’79』
1979年10月9日/RCA/RCA/RVL-2077〜8
国内チャート:12位/2.5万枚
 
①オープニング、②ウィー・ウィル・ロック・ユー(クイーン:1976)、③ラヴィング・ユー・ベイビー(I Was Made for Lovin’ You)(キッス:1978)、④オネスティ(ビリー・ジョエル:1976)、⑤ホット・スタッフ(ドナ・サマー:1978)、⑥いとしのエリー(サザンオールスターズ:1978)、⑦ブルースカイブルー、⑧ドント・ストップ・ミー・ナウ(クイーン:1976)、⑨エピタフ(キング・クリムゾン:1971)、⑩シェイク・ユア・ハンド(I Wanna Shake Your Hand)(ヴィレッジ・ピープル:1979)、⑪ゴー・ウエスト(ヴィレッジ・ピープル:1978)、⑫愛する君に(I’ll Supply The Love)(トト:1979)、⑬勇気があれば、⑭ホップ・ステップ・ジャンプ、⑮この愛の終る時(Comme si je devais mourir demain)(ジョニー・アルディ:1972)、⑯ヤングマン(Y.M.C.A.) (ヴィレッジ・ピープル:1978)、⑰セイリング(サザーランド・ブラザース・バンド:1972/ロッド・スチュワート:1974)
 
 第2回後楽園球場コンサートは⑯が空前の大ヒットを記録した直後の1979年8月24日に開催された。当日は1971年に暴風雨の中で開催されたGFRコンサートを思わせるほどの悪天候で、ライヴの一部が収録不能となり、スタジオ録音と差し替えられたパート(⑦⑬)もあるほどだった。
 ヴィレッジ・ピープルの曲が⑩⑪と、合計3曲もチョイスされているのはご愛嬌だが、⑪は当時ドリフターズが吹き替えをした人形劇「飛べ!孫悟空」(77〜79年)の挿入歌とならなければ、彼のニュー・シングルになったかもしれないほど良い出来になっている。
 まだディスコ熱の冷めない時期だけに、当時のディスコ・ヒット③⑤、またヒデキらしいロック・ナンバー⑧⑫もしっかりチョイスし、観客を乗せまくっている。しかしこのライヴでの聴きどころは④⑨⑮⑰といったバラードで、特にハイライトといえるナンバーは雷鳴が効果的なSEとなって響き渡る中で歌い上げる⑨で、その雰囲気はキング・クリムゾンのファーストやセカンドのジャケットの世界観を連想させるようで感動的でもある。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②ウィー・ウィル・ロック・ユー
 クイーンが1977年に発表した第6作『世界に捧ぐ』(全米3位:全英4位)のトップに収録されたナンバーで、〈伝説のチャンピオン〉とのカップリングとして大ヒット(全米4位)した。日本サッカー応援歌に採用されており、サッカー・ゲーム・ウイニング・イレブン・シリーズにも使用されている。また格闘技のアンディ・フグの入場テーマとしても有名で、2000年のフグ逝去の際には彼の葬儀でもBGMとして流されている。
③ラヴィング・ユー・ベイビー
 連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ライブ&モア』⑥参照。
④オネスティ
 連載第10回[アルテス2015年6月号]、小柳ルミ子『やさしさということ』②参照。
⑤ホット・スタッフ
 連載第8回[アルテス2015年2月号]、大場久美子『さよならありがとう武道館ラストコンサート』③参照。
⑥いとしのエリー
 連載第10回[アルテス2015年6月号]、小柳ルミ子『やさしさということ』⑩参照。
⑧ドント・ストップ・ミー・ナウ
 クイーンが1978年に発表した第7作『JAZZ』(全米6位:全英2位)の収録曲で、1979年にシングル・カットされ全英9位にランクされた。日本のCMに頻繁に使われる人気曲の一つで、 1990年代にはノエビアとコスモ石油、2000年にはダイハツのムーヴ、2006年にはキリン・ビバレッジの清涼飲料水NUDA (ヌューダ) のCMにも採用されている。
⑨エピタフ
 1969年に発表されたプログレッシヴ・グループの雄キング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』に収録された叙情的なバラード。このアルバムの日本での発売は1971年6月で当時の公称売上は2,000枚程度だったが、その後再発が続き、日本ではプログレッシヴ・ロックの入門編となる歴史的名盤としての知名度は抜群だ。ちなみに、この曲はザ・ピーナッツもライヴでカヴァーしており、プログレという枠をこえた名曲と認知されている。
⑩シェイク・ユア・ハンド
 ヴィレッジ・ピープルのメイン・ソングライターH.Belolo V.Willis J.Morariの書き下ろしによる1978年に発表した第4作『Go West』収録曲。
⑪ゴー・ウエスト
 ヴィレッジ・ピープルが1978年に発表した第4作のタイトル曲。日本ではドリフターズが吹き替えを担当した人形劇「飛べ!孫悟空」の挿入歌として彼らが日本語詞版リリースしている。1990年代にはペット・ショップ・ボーイズがテクノ・サウンドで好カヴァーを発表している。
⑫愛する君に
 ボズ・スキャッグスが1976年に発表した大ヒット・アルバム『シルク・ディグリーズ』のセッションから誕生したバンド、トトが1978年に発表したファースト・アルバム(邦題:宇宙の騎士)の収録曲。1979年にセカンド・シングルとなり、全米45位を記録した。
⑮この愛の終る時
 今回掲載の『ヒデキ・オン・ツアー』⑲参照
⑰セイリング
 今回掲載の、『BIG GAME’78 HIDEKI』㉓参照
 
※西城秀樹は1980年代以降も精力的にライヴ・アルバムを発表している。しかし、その膨大なリリース数のゆえ、コンプリートのCD化が遅れている。ただ1999年に、デビューから1985年までにリリースされたライヴ・アルバムのセレクション集が6枚のCDボックスで発売されている。参考までに簡単な詳細を記載する。
HIDEKI SUPER LIVE BOX 1999年12月16日/RCA/RCA/RVL-2077〜8
Disc-1. 『オン・ステージ』の一部、『リサイタル / ヒデキ・愛・絶叫!』の一部、『リサイタル/新しい愛への出発』の一部
Disc-2.『バレンタインコンサート・スペシャル / 西城秀樹 愛を歌う』の一部、『永遠の愛7章』の一部
Disc-3.『BIG GAME’78』の一部、『BIG GAME’80』の一部、『BIG GAME’81』の一部
Disc-4.『限りない明日を見つめて』
Disc-5,6.『’85 HIDEKI in Buddokan-for 50 songs-』
 
 
〈お詫び〉
連載第12回[アルテス2015年9月号]の南沙織『SAORI ON STAGE』の、P154〈②Dancing Queen〉解説文の『フォーリーブス・郷ひろみ / ジョイントリサイタル』⑲の参照を下記のとおり訂正いたします。
 
 スウェーデンが生んだ男女2名の4人組構成のポップ・グループ、アバが1977年に発表した大ヒット曲で、全米1位を獲得し、全英では6週連続1位と世界13か国で1位となり、全世界で300万枚を売上げた。この人気に便乗して、フランス語・ドイツ語・スペイン語・スウェーデン語ヴァージョンも発表されている。
 なお、この曲は1977年にリリースされた彼らの第4作『アライヴァル』(英1位:米20位)の収録曲だった。そんな彼らの全盛期にあたる1970年代後半にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア及び日本で絶大な人気を獲得し、シングルとアルバムの総売り上げは3億7000万枚を超えたという。その輸出額はスウェーデンを代表する企業ヴォルヴォを超える時期もあったほどだった。

(通算第14回) 榊原郁恵

 1970年代のアイドルといえば「スター誕生(以下、スタ誕)」などオーディション番組出身者が多かった印象がある。また1970年代中頃になると、プロダクションが自ら全国を回って「逸材」をスカウトするというコンクール企画もスタートし、さらに新人発掘競争が激化していたようだ。
 そんなプロダクション主体のコンクールのさきがけとなったものが、1976年に「ホリ・プロダクション(以下、ホリプロ)」が主催したオーディション・イヴェント「ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」だったように記憶する。今回紹介する「榊原郁恵」は、高校2年の時にこの第1回コンテストに参加し、岡田奈々の〈青春の坂道〉を歌いグランプリに輝き、これをきっかけに芸能界入りしたひとりだった。そもそもこの企画は〈僕は泣いちっち〉等のヒットで知られるホリプロ所属の歌手だった守屋浩がスタッフ側に転向しての初仕事で、優勝者選出は彼と当時の社長だった堀威夫の強力なプッシュ(ほかの審査員は反対だったようだ)によって決定したという。なお、この回には荒木由美子も参加しており、彼女は審査員特別賞を受賞している。
 そんな郁恵は翌1977年に、「一億人のシンデレラ」のキャッチフレーズのもと井上忠夫の書き下ろした〈私の先生〉(55位:2.8万枚)で歌手デビューした。続く〈バス通学〉(45位:4.8万枚)、〈わがまま金曜日〉(58位:4.8万枚)は天地真理のヒット曲を多く手掛けた森田公一を起用するも、やや伸び悩んでいた。そこで第4作にはあおい輝彦の〈Hi-Hi-Hi〉のヒットで頭角を現しつつあった新進気鋭の森雪之丞を起用、その狙いは見事に成功し〈アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた〉(22位:11.5万枚)は、初のトップ40入りを果たした。
 そして、年末の賞レースにおいては、第6回東京音楽祭国内大会・シルバー・カナリー賞優秀新人賞を皮切りに「第10回新宿音楽祭 銀賞」「第4回横浜音楽祭 新人賞」「第8回日本歌謡大賞 新人賞」「第4回FNS歌謡祭 優秀新人賞」「第19回日本レコード大賞 新人賞」など数多くの受賞に輝き、アイドル街道のメインストリームに躍り出た。当時同期デビューの高田みづえ・清水由貴子とは「フレッシュ三人娘」として呼ばれ、この年の賞レースを大いににぎわしている。なおその他の同期には、荒木由美子・大場久美子・香坂みゆき・狩人・川崎麻世・清水健太郎・太川陽介など長年芸能活動を続ける顔ぶれが揃っていた。
 翌1978年になると、編曲家として敏腕を振るっていた馬飼野康二の作品〈いとしのロビン・フッドさま〉(18位:15.3万枚)で見事トップ20入り、当時この曲は弓矢の振付で評判を呼んでいる。この曲のヒットにより4月には郁恵を中心としたバラエティ番組『UFOセブン大冒険』がスタート。そして歌手活動では、彼女のレコーディング・ディレクターだった佐々木勉の書き下ろしとなる〈めざめのカーニバル〉(16位:12.4万枚)、〈夏のお嬢さん〉(11位:20.2万枚)が、彼女を代表するヒットとなった。これはバラエティで、視聴者に公認された明朗で元気な彼女らしいキャラクターが一般に認知された結果と言えるのではないだろうか。いずれにしても、このヒットによって彼女は一躍トップ・アイドルのひとりに駆け上がった。
 
アイドル 榊原郁恵 1
 
 さらに、10月になると〈Do it BANG BANG〉(15位:13.2万枚)のヒットと並行するように初の連続ドラマ『ナッキーはつむじ風』(主題歌は挿入歌〈あこがれ〉(42位:4.1万枚)のB面〈あなたと夢とポップ・ロック〉)がスタート。このドラマの主人公役星野夏樹こと「ナッキー」は、その後の郁恵の愛称ともなるほど評判となり、さらに幅広い世代から人気を獲得している。このネーミングがどれほど公認されていたかは、1979年4月発表のセカンド・ライヴ・アルバムのタイトルに採用されていることからもよくわかる。なお、この頃にはミッキーマウスの吹き替えの声優にもキャスティングされ、ディズニーの特番にレギュラー出演しており、この活動はのちのミュージカル『ピーターパン』への布石のようにも感じる。
 そんな彼女の人気ぶりは、当時の芸能雑誌『明星』『平凡』『近代映画』などの表紙に出ずっぱり状態で頻繁に登場していることや、ブロマイドの月間売上1位獲得回数も17回と、女性タレント歴代5位という実績を持っていることでもよくわかるだろう。そして、この活躍が評価され、『第29回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、以後、1983年まで6回連続出場している。
 
アイドル 榊原郁恵2
 
 1978年に大ブレイクを果たした郁恵の1979年は、元旦特番『おめでとう日本列島』(TBS系)の総合司会を務めるという大役から始まり、この日にはテレビ主題歌以外では初のミディアム・バラード〈微笑み日記〉(15位:12.3万枚)を発表。この曲は、彼女の歌唱力が確実にアップしていることを立証するナンバーで、そのことは同年の第30回紅白歌合戦で歌った〈秋風のロンド〉(29位:5.8万枚)にも繋がっているように感じる。このようにデビュー3年を迎え比較的おとなしめの作品の印象が強かった1年ではあるが、ファンの期待にこたえる「ナッキー的」イメージの作品も忘れずに発表している。それは春先の〈青春気流〉(21位:9.1万枚)、そして8月にリリースする3作目のライヴ・アルバム『Hot Summer Dream』でのハイライトとなった〈ラブ・ジャック・サマー〉(20位:7.3万枚)だ。
 さてデビュー4年目を迎えた1980年の郁恵は、1年半続いた人気学園テレビ・ドラマ『ナッキーはつむじ風』も終了し、社会人となったナッキーを主人公とした『愛LOVEナッキー』がスタート。4月には「紅白歌のベスト10」(NTV)の司会者を務めるなど「アイドル」というよりも、「茶の間の人気者」といったイメージが定着しつつあった。しかし、この年には松田聖子など新世代のアイドルが登場してきた影響か、この年発表された作品は、彼女のイメージを再構築するようなアップ・テンポのナンバーが多かったような印象がある。しかも当時の流行を敏感に察知したものもいくつかあり、この年のシングルは大変興味深い。
 
アイドル 榊原郁恵3
 
 まず、3月には松任谷由実が(松田聖子に曲提供したことで有名なペンネームである)呉田軽穂で書き下ろした〈イエ!イエ!お嬢さん〉(28位:5.8万枚)。続いてはニューミュージックの台頭を意識したようなイントロが竹内まりや〈September〉を連想させる〈夢見る想い〉(61位:1.8万枚)。そして6月にはYMOの大ブレイクで世界中を巻き込んでいたテクノ・ポップのエッセンスを盛り込んだテクノ歌謡〈ロボット〉(22位:11.7万枚)。個人的な見解だが、この曲を聴くとロボット・パフォーマンスする郁恵を連想してしまう方も多いのではないだろうか? さらには大正製薬「パブロン」のCMソングとなった〈夢見るマイ・ボーイ〉(28位:5.7万枚)、矢沢永吉『成りあがり』の編集や沢田研二の〈Tokio〉で作詞を担当し、時の人となっていた糸井重里を起用した〈あなたは「おもしろマガジン」〉(40位:4.8万枚)等、この年発表した作品は(実績はともかく)つねに話題にこと欠くことないものばかりだった。補足ながら、この「おもしろマガジン」のジャケットは、(レコード会社が同じだった)近田春夫が10月に発表した『星くず兄弟の伝説』がモチーフとなっているので、興味のある方はチェックされたし。
 
アイドル 榊原郁恵4
 
 そんな充実した1年を送った郁恵だったが、1981年には「ナッキー」以外のもう一つの代名詞「ピーターパン」との運命的な出会いがある。この「ピーターパン」はブロードウェイ・ミュージカルで、このブロードウェイ公演に感激した同じホリプロ所属の和田アキ子が、(当時の)社長堀威夫に持ちかけたものだった。そこで主役に抜擢されたのが郁恵で、この公演は彼女自身初の座長公演であり、ホリプロが初めて手掛けたミュージカルでもあった。この当時の日本はミュージカルの認知度はまだまだ低く、当初興行の成功を不安視する声も多かったが、8月2日に新宿コマ劇場25周年記念作品として上演された。そんな中でスタートした公演ではあったが、彼女のフライング演技は大きな話題を呼び、この年の「ゴールデンアロー賞演劇賞」「ゴールデンアロー賞大賞」し、以後彼女は1987年に降板するまで、7年間毎年夏の1ヵ月間連続上演している。この間の上演数は340回、76万人を動員している。この郁恵の公演がいかに評判を呼んだかは、この公演の第4代主役(1993〜1995年)を射止めた相原勇は、この役を演じるために芸能界入りを目指したと公言していることでもよくわかるだろう。ちなみにこのミュージカルは現在も、会場や主役を変更しつつ継続され、2016年は7月24日より唯月ふうかの主演で東京国際フォーラムホールCにて上演されている。
 
アイドル 榊原郁恵5
 
 なお、彼女の1987年降板はTVドラマ『太陽にほえろ』のラガー役でブレイクしていた人気俳優渡辺徹との結婚によるものだった。なおこの結婚式は人気者同士のカップルということで大きな話題となり、「完全独占生中継おめでとう!! 渡辺徹・榊原郁恵結婚披露宴」(NTV)としてテレビ中継され、視聴率も40.1%をとるほどだった。結婚後の郁恵は、主婦タレントとしてバラエティ番組など幅広い分野で活躍している。そんな活動の影響もあってか、彼女の歌手としての実力を評価する機会が少ないが、その確かな歌唱力を確認できるものが2001年に彼女のデビュー25周年を記念した4枚組のCDボックスとして発売されている。このボックスは、TVサウンド・トラック「ミュージックファイルシリーズ」の企画・プロデュースで敏腕を振るっている高島幹雄氏が構成・取材をした優れものなので、ぜひ一度耳を傾けていただければと思う。なお近年は同時期に活躍した石野真子、そして松本伊代や早見優など80年代のアイドルたちと「MUSE×MUSE」ライヴに参加し、衰えを感じさせない魅力を振りまいて往年のファンを喜ばせている。
 
 
アイドル 榊原郁恵Live1
 
『榊原郁恵/ファースト・ライブ』
1978年6月25日/Columbia/PX-7060
国内チャート:36位/1.5万枚
 
①A Rock’n’ Roll Girl From Alaska、②Hellow Mr.Sunshine(タニヤ・タッカー:1976)、③恋人達の午後、④恋は水色(Love Is Blue)(ポール・モーリア:1966)、⑤陽だまりの中で、⑥バラのお嬢さん、⑦郁恵の一週間:a.一週間〜b.モナリザの微笑(ザ・タイガース:1967)〜c.電話でキッス(ポール・アンカ:1958)〜d.ポケットいっぱいの秘密(アグネス・チャン:1975)〜e.恋する夏の日(天地真理:1973)〜f.わがまま金曜日、⑧私の先生、⑨バス通学、⑨いとしのロビン・フッドさま、⑩アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた、⑪めざめのカーニバル
 
 このライヴは彼女が高校を卒業したデビュー2年目の1978年4月3日新宿コマ公演を収録したもので、初のトップ20入りした⑨の勢いに乗り、第6作⑪のお披露目をかねた上昇機運のなかで開催されたものだ。内容はこの時代のライヴ・アルバムにありがちな前半がカヴァー、後半がオリジナルを含むヒット・パレードといったものだ。持ち歌以外の選曲は映画サントラや先輩アイドルのヒット曲などで無難に仕上げられている。
 ファンとしては彼女が歌っているだけで満足といったところだろうが、その熱気もすさまじく、図太い声援の激しさを増すオリジナルへの熱い熱気に圧倒される。トップ・アイドルの頂点に近づきつつある郁恵の初々しさに溢れている。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②Hellow Mr.Sunshine
 本連載第11回[アルテス2015年8月号]、郷ひろみ『ヒーロー』を参照。 
④恋は水色
 原題:〈L’amour est bleu〉。1967年ユーロビジョン・ソング・コンテストにヴィッキーでエントリーされ、4位に入賞した。1968年にはポール・モーリアがインスト・ヴァージョンを発表し、全米で5週連続1位という爆発的ヒットを記録した。日本でも大ヒット(18位:12.2万枚)となり、ポール・モーリアは「ラヴ・サウンド」の定番となり、「オーケストラ界のヴェンチャーズ」と称されるほど、長く来日公演を開催している。その後数多くのカヴァーが相次ぎ、日本でも森山良子の歌で広く親しまれた。またデビュー前の天地真理がTVドラマ「時間ですよ」で、下宿先の窓越しに弾き語りで歌うシーンとしても広く認知されている。
⑦b.モナリザの微笑
 本連載第6回[アルテス2014年10月号]、伊丹幸雄『サチオ・ベスト・オン・ステージ』⑪ヤング・メドレーを参照。
c.電話でキッス
 本連載第6回[アルテス2014年10月号]、伊藤咲子『初恋 ライブ・オン・ステージ』を参照。
d.ポケットいっぱいの秘密
 アグネス・チャンが1974年に発表した6作目のシングル(6位:22.3万枚)。ちなみにこの曲のシングルは1974年の第5作アルバム『アグネス・チャンのちいさな日記』に収録されたティン・パン・アレイによるアレンジ・テイク(オールマン・ブラザースのデッキ―・ベッツ風)を、東海林修が加わりカーペンターズの〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉風にリアレンジしたものだった。
e.恋する夏の日
 天地真理が1973年に発表した7作目のシングル(1位:50.2万枚)。当時、この曲を歌う際のステージ衣装となったテニス・ルックにより、にわかテニス・ブームを引き起こし、多くの男性ファンを魅了した。また物まねネタの定番となるほど、強烈なインパクトをもたらしている。

「1978年の洋楽ヒット・チャート」については、本連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ラブ・コンサート・パート2〜ふたりのための愛の詩集』を参照。
 
 
アイドル 榊原郁恵Live2
 
『郁恵ライブⅡ/そよ風とナッキー』
1979年4月1日/Columbia/PX-7080
国内チャート:4位/7.7万枚
 
①Opening〜青春気流、②自由の女神、③翳りゆく部屋(荒井由実:1976)、④ムーンライト・サーファー(石川セリ:1979)、⑤ラッキー・ディ、⑥Chiquitita(アバ:1976)、⑦夏のお嬢さん、⑧Do It Bang Bang、⑨私のコズミック・ロケット、⑩微笑日記、⑪エレス・トゥー(あなたなしでは)(モセダデス:1973)、⑫青春気流
 
 このセカンド・ライヴは、デビュー3年目に突入した11枚目のシングル①の発売日に開催された日劇でライヴで、当時彼女が主演していた人気ドラマ「ナッキーはつむじ風」からタイトルが付けられている。
 ここでの注目は、編曲を彼女の⑩をはじめ多くのヒット曲を手掛けた若草恵が担当していることで、健康的な元気いっぱいの郁恵というよりも、歌唱力を問われる③⑥⑪といったスロー・ナンバーを多めに収録しているところだろう。このライヴでは彼女がアイドルよりも、シンガーとして真価を発揮したいという意気込みが感じられる。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
③翳りゆく部屋
1975年〈あの日に帰りたい〉(1位:61.5万枚)でブレイクした荒井由実(以下、ユーミン)が、敬愛するプロコル・ハルムをイメージして1976年に書き上げたクラシカル調の一大傑作(10位:25.6万枚)。そんなユーミンは2012年に憧れのプロコル・ハルムを日本に招きジョイント・コンサートを敢行している。
④ムーンライト・サーファー
 現井上陽水夫人で〈ダンスはうまく踊れない〉(57位:3.2万枚)を初ヒットさせたことで知られる、石川セリが1979年7月に発表した9枚目のシングル。もともとは、1977年に発表したサード・アルバム『気まぐれ』の収録曲だった。なお、当時のセリはまだ無名シンガーだったが、1970年代初頭に活躍したソフト・ロック・グループ「シング・アウト」の在籍経験があり、1971年には日活の青春映画『八月の濡れ砂』(監督:藤田敏八)の主題歌を歌った経歴を持っていた。
⑥Chiquitita
 1970年代後半に「スウェーデン最大の輸出品」とまでいわれたポップ・グループ、アバが1979年に発表した『Voulez-Vous』からのファースト・シングル。荒涼とした北欧を感じさせる哀愁漂うメロディが幅広い層に支持され、ベルギー、フィンランド、アイルランド、オランダ、ニュージーランド、スペイン、スイス、メキシコなど多くの国で1位を獲得、本国スウェーデンとイギリスでも2位を記録する大成功を収めている。またこの曲は『ユニセフ・チャリティー・コンサート』でも披露され、曲収益の半分は国際慈善団体ユニセフに寄付されている。
⑪エレス・トゥー(あなたなしでは)
 原題:〈Eles Tu〉。1973年にスペインのモセダデス(MOCEDADES)というグループがヨーロッパ中で大ヒットさせ、全米でも9位を記録する大ヒットとなった。その後、レイコニフ・シンガーズやアニタ・カー・シンガーズなどコーラス・グループがこぞって取り上げ、日本では1974年6月に本田路津子が〈あなたなしでは〉のタイトルでカヴァーしている。余談ながら、この曲は西城秀樹の〈ブルー・スカイ・ブルー〉の元歌ともいわれている。

「1979年の洋楽ヒット・チャート」については、連載第8回[アルテス2015年2月号]、大場久美子『さよならありがとう武道館ラストコンサート』を参照。

 
 
アイドル 榊原郁恵Live3
 
『Hot Summer Dream』
1979年8月25日/Columbia/PX-7093
国内チャート:24位/2.3万枚
 
①Opening〜Lido Shuffle(ボズ・スキャッグス:1976)、②ラブジャック・サマー、③ダンスに夢中(I Play For Dance)(レイフ・ギャレット:1979)、④夢のカルフォルニア(Carifolnia Dreamin’)(ママス&パパス:1967)⑤私のニューソング、⑥Just A Way You Are(素顔のままで)(ビリー・ジョエル:1976)、⑦ファンキー・モンキー・ベイビー(キャロル:1975)、⑧勝手にシンドバット(サザン・オールスターズ:1978)、⑨微笑日記、⑩秋風のロンド、⑪ラブ・ジャック・サマー
 
 郁恵のサード・ライヴ・アルバムは、前ライヴとはうって変り元気な彼女らしさではじけた魅力いっぱいで、⑪発表直後の1979年8月25日に日比谷野音で行われた野外ライヴだ。このアルバムの構成はアメリカのソフト・ロック・バンド、アソシエイションが1969年に発表したライヴ・アルバムをモチーフにした公演開始前の楽屋風景から収録されているライヴ・ドキュメントといった形態になっている。
 雨上がりの収録ではあったが、オープニングでは郁恵の名前をもじって替え歌にした①からして野外公演らしい解放感いっぱいのあってはじけたパワーが全開だ。特に③⑦⑧といったノリを意識した選曲で、躍動感が随所に溢れている。とはいうものの、歌唱力の問われる⑥やこの年の郁恵を象徴する⑨⑩といったナンバーを収録し、聴かせるライヴを構築しているているところに、彼女のシンガーとしての意欲的な姿勢が感じ取れる。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
①Lido Shafule
 AORの代表的シンガー、ボズ・スキャッグスが1976年に発表した第7作『Silk Degrees』の収録曲。アルバムからの4枚目のシングルとしてリリースされ、全米11位、全英13位、オーストラリアでは2位と世界的なヒットを記録した。なお、このアルバムは〈Lowdown〉(全米3位)や、多くのカヴァーを生んだスタンダード〈We Are All Alone〉などの名曲を収録したボズの代表作と評価される一大傑作で、ここに参加したバック・ミュージシャンたちは後にTOTOを結成している。
③ダンスに夢中(I Play For Dance)
 連載第8回[アルテス2015年2月号]、大場久美子『さよならありがとう武道館ラストコンサート』を参照。
④夢のカルフォルニア
 60年代中期の「サマー・オブ・ラヴ」を代表するグループ、ママス&パパスのデビュー曲で、全米4位を記録した代表曲。作者はリーダーのジョン・フィリップスで、当初は〈明日なき世界(Eve of Destruction)〉をヒットさせたバリー・マクガイヤーによって発表された。後に、ママス&パパスが男性2人、女性2人の編成による素晴らしいコーラス・ワークのヴァージョンが発表され、多くの人々を魅了し、彼らは一躍アメリカを代表するビッグ・スターになった。
 ウエス・モンゴメリーなどジャズをはじめとする幅広いジャンルでもカヴァーされた名曲であり、日本でも絶大な人気を誇り、何回もCMソングに採用され、その度にリヴァイヴァル・ヒットしている。
⑥素顔のままで
 ビリー・ジョエルが1977年に発表した第5作『The Stranger』(全米2位)収録曲で、ファースト・シングルに選ばれたナンバー。この曲はアルバムと共に大ヒットとなり、全米3位を記録し、1978年のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞している。この成功により、彼は一躍アメリカを代表するシンガーのひとりとなった。余談ながら、日本においてはSonyがCM起用したアルバム・タイトル曲〈ストレンジャー〉をA面にしてリリースおり、こちらが大ヒット(2位:47.1万枚)となっている。
⑦ファンキー・モンキー・ベイビー
 連載第13回、西城秀樹『MEMORY-20歳の日記』⑧を参照。
⑧勝手にシンドバット
 今や国民的バンドとして君臨するサザン・オールスターズが1976年に発表した衝撃のデビュー曲。当時このタイトルは沢田研二の〈勝手にしやがれ〉とピンク・レディーの〈渚のシンドバッド〉を合体させたナンセンス・ソングということで話題をよんでいた。しかしサウンド面では当時流行りのニューヨーク・ラテンのサルサを大胆に導入した野心溢れるナンバーだった。
 余談にはなるが、当時桑田佳祐のキャラクター目に付けたドリフターズのいかりや長介は、彼をコメディの世界にスカウトしていたというまことしやかな話がある。もしこの噂が現実のものになっていたら、日本の音楽シーンがどのようになっていたのかを想像すると、実に興味深い。

「1976年の洋楽ヒット・チャート」については、本連載第3回[アルテス2014年3月号]のこの連載を参照。
 
 
〈お詫び〉
本連載第13回[アルテス2016年6月号]の「西城秀樹」の回において以下の誤りがありましたので、訂正してお詫びいたします。
 
◆「そして1981年の〈セクシー・ガール〉〜」の箇所
[誤](14.2万枚)
[正](10位:14.2万枚)
 
◆「『西城秀樹ROCKトリビュート〜‘KIDS’ WANNA ROCK!』が発売された(参加ミュージシャンは、〜」の箇所
[誤]THE IGH-LOWS
[正]THE HIGH-LOWS

(通算第15回)桜田淳子

 1970年代の代表的な女性アイドルといわれれば、まずは「新三人娘」と呼ばれた天地真理・南沙織・小柳ルミ子の名前が真っ先に思い浮かぶはず。そして、この3人に続くビッグ・アイドルとなると、日本テレビ「スター誕生(以下、スタ誕)」から登場した「花の中三トリオ」で一世を風靡した桜田淳子・山口百恵・森昌子があげられるはずだ。今回はそのなかのひとり、桜田淳子のライヴ・アルバムにスポットをあてる。ちなみ彼女は、デビュー翌年の1974年から1980年まで毎年コンスタントにライヴ・アルバムを発表している。そこには「スタ誕」のディレクターだった宮嶋章も参加しており、当時のセット・リストはアイドルのなかでも洋楽的要素が強いものだった。また宮嶋が離れたあとも、そのコンセプトは継承されているので、そのあたりもじっくり検証してみることにした。
  まず彼女のデビューのきっかけは1972年7月に秋田県民会館で開催された「スタ誕・予選会」への参加だった。その会場内において、当時まだ中学2年だった淳子の存在はきわだっており、司会の欽ちゃん(萩本欽一)がその美貌に一目惚れしたという話があるほどだ。そんな将来性を期待させる彼女を見た番組スタッフは、「どうか彼女が音痴でありませんように」と祈ったという。なぜなら、もし音痴だったら審査員の松田トシ(岩崎宏美・良美姉妹の恩師)が「0点」を出しかねないと心配したからだった。しかし、その不安を吹き飛ばすかのようにふつうに歌いこなした(笑)淳子は、当時、番組史上最高となる573点(1,000点満点で合格ラインは250点)を獲得して見事「合格」した。
 そして、同年9月に後楽園ホールで行われた「第4回決戦大会」へ進出し、ここでも番組史上最高となる25社からオファーが上がり、合格のみならずこの大会のグランド・チャンピオンも受賞している。このオファーのなかから淳子は、以前からファンだった森田健作(現千葉県知事)が所属するサン・ミュージックを選び、翌1973年2月に〈天使も夢みる〉(12位:12.1万枚)で歌手デビューを飾った。そんな彼女のキャッチフレーズはファースト・アルバムのタイトルにもなる「そよ風の天使」で、このときにかぶっていたキャスケットは当時「エンジェルハット」と呼ばれ、初期の彼女のトレードマークとなっている。
 その後、一足先に〈せんせい〉(3位:51.4万枚)でデビューしていた森昌子、5月に〈としごろ〉(37位:6.7万枚)でデビューを飾った山口百恵の「スタ誕」出身の3人で、「花の中三トリオ」(当時)を結成。ちなみにこの名称は、彼女たちが進級しても高校を卒業する高校3年まで継続され、当時の芸能誌『明星』『平凡』の表紙にもトリオでひんぱんに登場し、彼女たちが高校2年のときには3人が主役の映画『初恋時代』も制作されている。
 
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 そんな淳子は、一般的にデビュー曲の印象が強いサード・シングル〈私の青い鳥〉(18位:15.9万枚)で、新人レースのトップに飛びだした。その勢いで、第4回日本歌謡祭放送音楽新人賞を受賞し、第15回日本レコード大賞では森昌子や山口百恵をおさえ最優秀新人賞にも輝いている。なお、この年の6月には『そよ風の天使』、9月に『私の青い鳥』、そして12月には『淳子と花物語』と、デビューからわずか6ヵ月のあいだに3枚もアルバムをリリースするなど、すでに大きな期待がよせられていた。こんななか、同年11月にリリースされた4枚目のシングル〈花物語〉(9位:23.7万枚)は、初めてチャートのトップ10ヒットとなった。
 
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 そして、デビュー2年目の1974年は、3月に〈三色すみれ〉(10位:18.6万枚)、5月には淳子にお似合いの心地よいポップ・ナンバー〈黄色いリボン〉(10位:16.5万枚)、さらに8月にはイントロでのセリフがキュートな〈花占い〉(9位:12.3万枚)と、発表する曲すべてをトップ10に送りこんだ。さらに、12月に発表した森田公一書き下ろしの8枚目のシングル〈はじめての出来事〉は初のチャート1位(52.7万枚)に輝き、大みそかの第25回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしている。
 この頃になると、淳子は「中三トリオ」というばかりでなく単独でも引っ張りだことなり、『明星』『平凡』など芸能誌の表紙をはじめ、『週刊プレーボーイ』『平凡パンチ』のグラビアにもひんぱんに登場するなど、アイドルとしてトップに躍り出た。また、この年からワンマンショー「リサイタル」をスタートさせている。
 
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 さて、デビュー3年目を迎えた1975年は、当時文化放送の人気パーソナリティー落合恵子の大ベストセラー・エッセイ集を原作にした映画『スプーン一杯の幸せ』の初主演から始まった。この映画の主題歌となったはちきれんばかりのポップ・チューン〈ひとり歩き〉(4位:34.1万枚)も大ヒット。この曲を収録した第6作アルバム『スプーン一杯の幸せ』は初のトップ10を獲得し、彼女の最大セールス・アルバム(9位:6.1万枚)となった。さらに大竹しのぶ主演のNHK連続テレビ小説『水色の時』の主題歌に採用された〈白い風よ〉(9位:12.9万枚)も評判となり、続く〈十七の夏〉(2位:40.4万枚)、〈天使のくちびる〉(4位:28.1万枚)、〈ゆれてる私〉(5位:27万枚)と出す曲すべてをトップ5入りさせている。当然ながら、アルバム・セールスも順調で、第7作アルバム『わたしの素顔』も連続トップ10入り(6位:6万枚)した。なお、この年にはこの2枚のオリジナル・アルバム以外にベスト・アルバム3作、ライヴ・アルバム1作と計6作というハイ・ペースでアルバムがリリースされているが、すべてがトップ100入りを果たしており、その人気は止まることを知らない勢いだった。
 そして年末の第17回日本レコード大賞では、それまでも天地真理や麻丘めぐみなどが受賞したトップ・アイドルの証、大衆賞を獲得した。とくにこの年は、レコード売上以外にもブロマイド売上、『月刊明星』の人気投票においても、女性歌手部門ですべてにおいてトップに輝いている。この一連の記録は美空ひばりや吉永小百合に次ぐもので、名実ともに1970年代を代表するトップ・アイドルのひとりとなった。
 
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 また、この年には井関農機の田植機「さなえ」のCMに登場、ここでの「やっぱし早苗だべさ!」というネイティヴ秋田弁のセリフが大評判となった。それは、のちに小林旭がヤンマーのCM(1978年)で歌った「燃える男のぉ~赤いトラクター~♪」と並び、幅広い層から大喝采をあびた。さらに、『8時だョ!全員集合』の志村けんとの夫婦コント(私って駄目な女シリーズ)での絶妙な掛け合いも大受けとなり、たんに人気を獲得しただけでなくコメディエンヌとしても業界関係者からも注目を集める存在になった。なお、このコント風景は『8時だョ!全員集合』のDVDでも確認できるので、ファンならずとも要チェックだ!
 さて、翌1976年になると淳子の快進撃はさらに勢いを増し、2月に〈泣かないわ〉(4位:21.6万枚)、5月には〈夏にご用心〉(2位:36万枚)、8月の〈ねぇ! 気がついてよ〉(2位:28.6万枚)、12月に〈もう一度だけ振り向いて〉(11位:20.4万枚)とベスト・セラーを連発。またアルバムも2枚のオリジナル・アルバムと、ベスト、ライヴ、サントラのアルバムを各1枚と計5作すべてがトップ100チャート・インという前年以上のセールスを記録している。また、女優活動も1976年に落合恵子原作による映画『遺書 白い少女』で2作目の主演を果たし、以後『若い人』(1977年)『愛情の設計』(1977年)『愛の嵐の中で』(1978年)と5本の映画で主演を務めている。
 そんな国民的アイドルとなった淳子ではあったが、当時ライヴァル視されていた山口百恵も着実に淳子との差を詰めつつあり、とくにこの年6月に発表した阿木曜子と宇崎竜童コンビの書き下ろし〈横須賀ストーリー〉(1位:66.1万枚)は、百恵人気を決定付ける大ヒットとなった。また女優としても映画『伊豆の踊子』や、テレビ・ドラマ「赤いシリーズ」の大ヒットで、淳子と並ぶトップ・アイドルの地位を築いた。
 
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 とはいえ、翌1977年になっても淳子の人気はすさまじく、年初からキラキラしたポップ・ソング〈あなたのすべて〉(6位:15.2万枚)、そしてヘア・スタイルをショートに変え、セクシーな振付でファンを悩殺したキラー・チューン〈きまぐれヴィーナス〉(7位:21万枚)で、はじけた魅力をふりまき、その人気をゆるぎないものにしている。とくに後者は、今やコロッケのモノマネ・ネタの定番として広く知れわたり、淳子を語るうえでは欠くことのできないナンバーとなっている。補足すると、この曲は当時『題名のない音楽会』にて、オーケストラをバックに歌う機会に恵まれ、ふだんとは違った層からも注目されたという。なおこの曲を収録した第10作『ラブ・淳子が禁断の実を食べた』は、リゾート風景を連想させるような解放感にあふれたポップ・ナンバーが並ぶ快作だった。その出来は、この年に山口百恵が初の海外録音として発表した『GOLDEN FLIGHT』(第12作)と比べても、遜色のない充実作だったといえる。
 さらに夏以降は、少し大人びた〈もう戻れない〉(8位:14.4万枚)、中島みゆきの書き下ろしによる〈しあわせ芝居〉(3位:36.5万枚)で、新しいファンを獲得している。これら一連のヒット曲は、この年に百恵が発表した〈初恋草子〉(4位:24.1万枚)、〈夢先案内人〉(1位:46.8万枚)、〈イミテーション・ゴールド〉(2位:48.4万枚)、〈秋桜〉(3位:46万枚)、〈赤い衝撃(レッド・センセーション)〉(5位:21.5万枚)にも見劣りしないだけの実績を上げ、他のアイドルの追従を許さないほどだった。
 ただ、翌1978年になると、中島みゆきの〈追いかけてヨコハマ〉(11位:16.4万枚)、〈20才になれば〉(14位:11.7万枚)など、話題性をもったナンバーを発表するも、この年のトップ10ヒットは〈リップスティック〉(10位:19.6万枚)のみに止まっている。それに対して百恵は、〈乙女座宮〉(4位:31.4万枚)、〈プレイバックPart2〉(2位:50.8万枚)、〈絶体絶命〉(3位:37.6万枚)、〈いい日旅立ち〉(3位:53.6万枚)と彼女の代表作ともいえる名作を続々発表していた。
 このようにシングル・セールは伸び悩んでいたが、この時期の淳子はシンガーとして充実したアーティスト活動に取り組んでいる。その最初の成果が、全曲中島みゆき作品でまとめた第13作『20才になれば』(28位:1.4万枚)だった。ここでは、〈化粧〉のようにバロック調のアレンジ(編曲:若草恵)で格調高い雰囲気で歌いこなすなど、一段と成長した姿をみせている。それはこの年、百恵が自身の最大セールスを上げた『ドラマッチック』や『曼珠沙華(マンジューシャカ)』に比べても遜色のないものだったと感じる。しかし、淳子のアルバムは同じ中島みゆきの作品集を同時期に発表した研ナオコの『NAOKO VS MIYUKI/研ナオコ、中島みゆきを歌う』(3位:21.3万枚)の影に隠れてしまった感があり残念でならない。
 
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 そんななか、淳子は長谷川一夫からのオファーにより、『おはん長右衛門』で舞台女優に挑戦している。ここでは初舞台ながら長谷川一夫の相手役を立派に演じたことで、役者としての資質が改めて注目されるようになった。さらに、翌1979年の角川映画『病院坂の首縊りの家』(監督:市川崑)で演じた一人二役も絶賛を浴び、これまで以上に女優としての存在感が際立つようになっている。
 そして、翌1979年になると、前年とは打って変り、はじけたポップ・ナンバーを次々に発表する。そのきわめつけが、名アレンジャー萩田光雄作の(ディスコ・アレンジのリミックス盤も発表されている)〈サンタモニカの風〉(24位:12.3万枚)で、その爽快感にあふれた雰囲気は淳子ワールド全開といった出来で、久々にフレッシュな淳子がよみがえった。そして、流行を意識したAOR調のオシャレ系のポップ・ソング〈Miss Kiss〉(25位:6.6万枚)、〈パーティー・イズ・オーバー〉(51位:2.5万枚)、〈Lady〉(51位:2.6万枚)など、この年発売されたシングルは、ポップ・シンガー淳子の魅力を再認識させてくれるものばかりだった。
 
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 さらにこの年の淳子は、ミュージシャンとして精力的に活動している。まず、6月には〈池上線〉で知られる西嶋三恵子や、〈どうぞこのまま〉をヒットさせた丸山圭子、新進気鋭の林哲司らによる好ナンバーをまとめたフォーキーな作品集『一枚の絵』(第15作)の発表。そして、8月には合歓(ねむ)の郷(三重県)で野外コンサートを開催し、その後は主要都市を巡る全国ツアーを敢行し、多くのファンに「淳子健在」をアピールしている。そして、ツアー終了後の9月には、ブレイク寸前の山下達郎が書き下ろした〈センチメンタル・ボーイ〉〈バカンスの終わりに〉を収録したポップ・アルバム『パーティー・イズ・オーバー』(第16作)を発表するなど、これまで以上にひとりのシンガーとして充実した1年を過ごしている。この年に淳子が発表したアルバムは、当時百恵がロサンゼルス録音を敢行して制作した『L. A. Blue』にも決して引けを取らないものだった。
 また、この年20歳を迎えた記念に企画されたNHKのスペシャル番組『ビッグショー/桜田淳子 明日への序曲』に登場し、大きな反響を呼び、根強い人気を立証した。
 
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 ただ、トップ・アイドルの座はすでに百恵の時代に移っており、〈美・サイレント〉(4位:32.9万枚)、〈愛の嵐〉(5位:32.8万枚)、〈しなやかに歌って〉(8位:27.1万枚)とトップ10ヒット常連となっていた百恵は、当時「菩薩」とまで称される存在になっていた。しかし、この年10月20日に山口百恵が自身のコンサートで「三浦友和との交際宣言」を発表、その翌年には結婚引退というニュースが全国を走った。この引退劇により、NHK紅白歌合戦での「スタ誕」トリオでの参加は、この年がラストとなっている。
 そして翌年には、最大のライヴァル百恵は、傑作アルバム『メビウス・ゲーム』と、引退ライヴ『伝説から神話へーBUDOKAN…AT LAST』を残して去っていった。こんな「百恵フィーヴァー」のなかで、淳子がこの年発表したシングルはすべてトップ40圏外、オリジナル・アルバムも発表されないという、歌手としては厳しい一年となった。しかし、この年には、「女子限定」と告知したコンサート「私小説」を開催し、脱アイドルを意識した新しいチャレンジに臨んでいる。また、女優としてはミュージカル『アニーよ銃をとれ』での初主演を成功させ、その演技は、年末の芸術祭大衆芸能部門の優秀賞(大衆芸能部門、文部大臣新人賞)を、当時史上最年少で受賞するなど高い評価を得た。このように、当時の淳子は歌手よりから女優の資質がさらに大きく開花し、ある面、実りの多い年だった。
 そして、百恵が引退した翌1981年には、以前『20才になれば』に収録の〈化粧〉をフォーキーにリアレンジ(大村雅朗による)したシングル(42位:7.5万枚)をリリースし、久々に歌手としてスポットがあてられた。また、この年には1年半ぶりのオリジナル・アルバム『あなたかもしれない』(第17作)を発表。その内容は、初期松田聖子のメイン・ソングライターとして知られる小田裕一郎と戸塚省三(「美味しんぼ」の原作者、雁屋 哲の弟)書き下ろしによる、AORテイストがちりばめられた好アルバムだった。そこではポップ・シンガー淳子の魅力が満ちあふれ、淳子自身もフェイヴァリッツ・アルバムの一枚とコメントしている。
 
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 さらに年末にはA面を矢野顕子、B面は前作でも大活躍した小田裕一郎の作品でまとめた意欲作『My Dear.』を発表。ここでの淳子は、個性派である矢野顕子作品を彼女のスタイルで歌いこなし、小田のポップ・チューンではその相性の良さを再認識させてくれた。それは当時主流となっていたニュー・ミュージックやフュージョン・サウンドに比べても、決して聴き劣りしない仕上がりだった。なお、淳子のNHK紅白歌合戦で歌った最後のオリジナル・ソングは、ここに収録された〈This is a Boogie〉だったということを付け加えておく。補足すると、小田はこの年に淳子と同じサン・ミュージックからデビューした松田聖子のブレイクに大きく貢献している。そのヒット曲(〈青いサンゴ礁〉〈風は秋色〉など)や、聖子のファースト『SQUALL』、セカンド『North Wind』に収録された小田の曲を聴くと、聖子は「1980年代の桜田淳子」という印象が強く感じられる。
 
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 その後の淳子は、次第に女優活動に比重がおかれ、1983年の〈眉月夜〉(作:小椋佳)を最後に歌手から完全に女優業へ転向。そして、数多くのテレビ・ドラマ、舞台、映画で活躍し、1987年には『女坂』で「菊田一夫演劇賞(演劇賞)」を受賞するなど、女優として数多くの賞に輝いている。
 しかし、多くのファンにとって「桜田淳子」は永遠のアイドル歌手であり、ベストテン・ヒット18曲と、シングルの累計売上600万枚以上という輝かしい実績は、ファンには忘れられない軌跡のはずだ。それに応えるかのように、2000年代に入り、淳子関連の音源復刻が続いている。まず2000年3月には、『桜田淳子BOX~そよ風の天使~』(完全生産限定10,000セット)が発売された。このブックレットには淳子自身が自筆メッセージを寄せている。また2007年には歌手時代に発表した全19枚のオリジナル・アルバムがすべてボーナス・トラック付きで復刻された。この快挙は、当時入手困難で高嶺の花となっていた多くのアルバム(とくに後期)を待ちわびていたファンに大歓迎されている。さらに、ここでの購入特典となったメッセージ入りCD「声の手紙」(非売品)の中では、かつてのオリジナル作品3曲を間に挟む形での語りが収録され、1992年の結婚引退後10数年ぶりに肉声が披露されるという、熱狂的なファンにとってはこのうえないプレゼントとなった。そして、2008年には、過去のライヴ・アルバム7枚と2作目の主演映画『遺書 白い少女』のサントラ、さらに前出した1979年にNHKで放送された『ビッグショー/桜田淳子 明日への序曲』のDVDを加えた『桜田淳子BOXスーパー・ライブ・コレクション』が発売され、ベスト・アルバム以外の音源はほぼ完璧にCD化が実現した。
 
 このように歌手時代のCD化がすすんでも、淳子は結婚引退後に公の場へ登場することはなかった。ところが2013年5月28日に、サン・ミュージック代表取締役会長である相澤秀禎の通夜に参列し、16年半ぶりに公の場に現れ、大きなニュースとなった。さらに同年10月23日には「デビュー40周年」を記念し、本人自薦のベストアルバムにテレビ映像集を加えた『Thanks 40~青い鳥たちへ』を発売。この購入特典として、11月26日に銀座博品館劇場にて「Thanks 40スペシャル~ファン感謝DAY」(抽選で380名招待)を開催した。当然ながら、このチケットは10数倍の争奪戦となり、オークションでは数十万円の値がつくなど「スーパー・プレミアム・チケット」となっている。そんななか行われたイヴェントでは、約21年ぶりに公の場で生歌を披露(〈Lady〉〈追いかけてヨコハマ〉〈しあわせ芝居〉の3曲)、そしてゲストに登場した太川陽介と全シングルの一部を歌いながら思い出を語るといった、ファンにとっては極上のプレゼントとなった。このニュースは翌日のテレビや新聞紙面を大きく賑わし、スポーツ新聞一面には「桜田淳子でございます」「桜田淳子、歌った」という大きな見出しで掲載されている。この報道は「桜田淳子」という存在が、いかに大きなものだったかを改めて知らしめる出来事となったはずだ。
 
 
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『16才のリサイタル』
1974年12月20日/Victor/SIX-196
国内チャート:36位/2.3万枚
 
①オーバーチュア ②メドレー:ⓐ花占い~ⓑ天使も夢みる ③太陽のとびら(Alle porte del sole)(ジリオラ・チンクエッティ:1974) ④Top Of The World(カーペンターズ:1973) ⑤ナレーション ⑥黄色いリボン ⑦三色すみれ ⑧黄色いリボン・メドレー~ⓐSide By Side(ケイ・スター:1953)~ⓑ天使のささやき(When I Will See You Again)(スリー・ディグリーズ:1974)~ⓒにくい貴方(These Boots Are Made for Walkin’)(ナンシー・シナトラ:1966) ⑨淳子のものまねコーナー ⑩若草の髪かざり(チェリッシュ:1973) ⑪涙は大切に ⑫私の青い鳥 ⑬Hey Pola(ポール&ポーラ:1962)〔デュエット:森田健作〕 ⑭ⓐパイロットとスチュワーデス~ⓑパイナップル・プリンセス(アネット:1960) ⑮兄弟:日ぐれの少女
※⑬~⑮カセット収録音源、(1974年7月25日『森田健作オン・ステージ(1974.5.8. 日劇)』)
 
 淳子のファースト・ライヴ・アルバムは彼女の最大ヒット〈初めての出来事〉発売直後のデビュー1年8ヵ月を迎えた10月19日の渋谷公会堂公演を収録。ここでは洋楽カヴァーが5曲(カセット7曲)も組み込まれており、彼女のポップス志向ぶりがきわだっている。そのカヴァーの中では、鼻にかかった「ツンデレ調」の⑧ⓒや、キャピキャピのティーン・ポップ⑭ⓑなどが、彼女にはよく似合っている。
 オリジナルで押さえておきたい曲は、単独とメドレーで2回登場する⑥で、典型的なティーン・ポップスといったノリがとても心地よい。まさに、初期の淳子を象徴するナンバーといえるだろう。
 なお、⑨は彼女のトレードマークとなるコメディエンヌ的なパフォーマンスで、将来女優として開花する資質の発芽を感じさせる。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
③太陽のとびら
 1974年度のカンツォニッシマで初優勝を飾ったジリオラ・チンクエッティの最後の大ヒット。この優勝によりロンドンで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテストに出場し、〈夢はめぐり来て〉で2位になった。なお彼女は1964年、16歳のときにサンレモ音楽祭で〈夢みる想い(non ho l’età)〉を歌い優勝。同年のユーロビジョン・ソング・コンテストでも、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たし一躍名声を手中に収めた。
④Top Of The World
 本連載第4回[アルテス2014年4月号]、浅田美代子『美代子のページ』⑦〈A〉参照。
⑧ⓐSide By Side
 1953年に白人女性歌手ケイ・スターが全米3位に送り込んだスタンダード・ソングで、もともとはハリーM. ウッズが1927年に書き下ろしたものだ。そんな彼女は、1950年代に〈Wheel of Fortune〉〈The Rock And Roll Waltz〉を全米1位に送りこむなど、1940~1950年代のアメリカを代表するポップ・ジャズ歌手のひとりで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家のひとりビリー・ホリデイは彼女を「ブルースを歌うことができた、ただひとりの白人の女性」と称賛している。
⑧ⓑ天使のささやき
 1973年に名プロデューサー、ギャンブル&ハフの率いるPhiladelphia International(以下、フィリー)に移籍したスリー・ディグリーズが、1974年に発表した5作目(通算26作目)のシングルで全米2位を記録した代表曲。この曲はフィリーで1973年に発表されたファースト・アルバム(通算2作目:全米28位)の収録曲で、日本では全米に先駆けシングル・カットされ大ヒットとなっている。また日本では訳詞盤も発売されたほどで、彼女たちの日本での人気を決定的なものにしている。余談ながら、彼女たちはフジ・テレビの長寿番組『夜のヒット・スタジオ』に初出演したソウル・グループだった。
⑧ⓒにくい貴方
 「ザ・ヴォイス」フランク・シナトラの長女ナンシー・シナトラ通算12作目のシングルで、1966年に初の全米1位を獲得した代表曲のひとつ。ちなみに日本においては1962年の〈レモンのキッス(Like I Do)〉、1963年の〈いちごの片思い(June, July, and August)〉などのヒットで、「フルーツ娘」と呼ばれるほど人気を博していた。しかし本国でブレイクしたのは、1965年以降に敏腕プロデューサー&ソング・ライター、リー・ヘイゼルウッドが手掛けるようになってからだった。
⑦若草の髪かざり
 1968年に松崎好孝を中心に名古屋で結成され、1971年に〈なのにあなたは京都へ行くの〉(13位:19.6万枚)でデビューしたフォーク・グループ、チェリッシュの1973年の第5作シングル。1972年の〈ひまわりの小径〉(3位:41.2万枚)に続く、2作目のトップ10ヒット(7位:28.7万枚)となった。なお、彼らの代表作といえば、〈てんとう虫のサンバ〉(5位:40万枚)で、今や結婚式の定番ソングになっている。ちなみに、グループ名はアメリカのソフト・ロック・バンド、アソシエイションの代表作のひとつ、1966年の全米1位獲得曲から命名されたものだ。
⑩Hey Pola
 本連載第6回[アルテス2014年10月号]、伊藤咲子『初恋 ライブ・オン・ステージ』⑧参照。
⑭ⓑパイナップル・プリンセス
 1960年代前半に活躍したアメリカの女優兼歌手として知られる、アネット(本名:アネット・ファニセロ)が1960年に発表した代表的なヒット曲で、全米11位を記録している。ちなみに、日本では翌年にリリースされた田代みどり訳詞カヴァーが、オリジナル以上に評判を呼び、幅広い人気を集めた。
 
「1974年の洋楽ヒット・チャート」については、アルテス2014年3月号、麻丘めぐみ『夢ひらくリサイタル』(p. 99)を参照。
 
 
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『ビバ!セブンティーン リサイタル2』
1975年12月20日/Victor/CD4B-5105
国内チャート:9位/4.4万枚
 
①オープニング ②Proud Mary(C.C.R.:1969、アイク&ティナ・ターナー:1971) ③Welcome To My World(ジム・リーヴス:1964) ④港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンド:1975) ⑤What’d I Say (レイ・チャールズ:1959) ⑥レモンのキッス(Like A Do)(ナンシー・シナトラ:1962) ⑦Something(ザ・ビートルズ:1969) ⑧Fever(ペギー・リー:1958) ⑨恋よまわれ(Gira l’amore)(ジリオラ・チンクエッティ:1972) ⑩Rose Garden(リン・アンダーソン:1971) ⑪ゆれてる私 ⑫ひとり歩き ⑬私の青い鳥 ⑭天使のくちびる ⑮遥かな友へ ⑯心のページに
 
■カセット/CDの収録曲
①オープニング ②プラウド・メアリー ③ウエルカム・トゥ・マイ・ワールド ④港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ ⑤ホワット・アイ・セイ ⑥レモンのキッス ⑦電話でキッス ⑧大人になりたい ⑨恋よまわれ ⑩ローズ・ガーデン ⑪サムシング ⑫フィーバー ⑬ゆれてる私 ⑭十七の夏 ⑮花占い ⑯三色すみれ ⑰ひとり歩き ⑱わたしの青い鳥 ⑲天使のくちびる ⑳遥かな友に ㉑心のページに ㉒涙は大切に
 
 セカンド・ライヴ・アルバムは3曲目のトップ5となった⑪リリース直後の文京公会堂公演より収録。演奏は前作同様、ダン池田とニュー・ブリードが担当し、司会をあの徳光和夫が務めている。
 このアルバムでのセット・リストはジャズからカントリーまで洋楽カヴァーが7曲(カセット9曲)と宮嶋章が選曲に関わっていた影響もあり、前作よりも幅広いレパートリーのとなっている。
 このカヴァーの中で17歳の彼女に一番フィットしているのはアイドル風の⑥やカンツォーネの⑨に落ち着く。ただそれだけでなく、カントリー・スタンダードの③⑩などは、マリリン・モンロー風のあまくとろけるような歌いまわしで、ライヴを大いに盛り上げている。さらに、このライヴでのハイライトはジャズの⑧で、その選曲センスもさることながら、中間に〈秋田音頭〉を挟み込むというシャレはいかにも淳子らしい趣向で微笑ましい。補足ながら、④でもネイティヴ「秋田弁」を披露し、客席に向かってレッスンをするなど、彼女のエンターティナーとして資質が光っている。
 なお、このアルバムは当時各社が競っていた「CD-4」方式の4チャンネルで発売されている。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②Proud Mary
 本連載第4回[アルテス2014年4月号]、浅田美代子『美代子のページ』③参照。
③Welcome To My World
 1964年7月31日に飛行機事故で亡くなったカントリー歌手ジム・リーヴスが、1964年に全米カントリー・チャート2位に送り込んだ代表曲のひとつ。この曲はレイ・ウィンクラーとジョン・ハーシコックのコンビによって書かれ、最初は1962年のジム・リーヴスのアルバムにのどかなカントリー・ソングとして収録されたものだった。その後、1964年になってナッシュヴィル・スタイルのアレンジがほどこされてシングルとなり、大ヒットに結びついた。その後、ディーン・マーチン(1965)、エルヴィス・プレスリー(1973)、などもカヴァーし、今やカントリーのスタンダード・ソングになっている。
④港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ
 連載第13回[本誌2016年4月号]、西城秀樹『オン・ツアー』⑦参照。
⑤What’d I Say
 本連載第6回[アルテス2014年10月号]、伊丹幸雄『サチオ・ベスト・オン・ステージ』⑫参照。
⑥レモンのキッス
 ナンシー・シナトラが1962年に発表した2作目のシングル〈逢ったとたんに一目ぼれ(To Know Him Is To Love Him)〉(テディ・ベアーズのカヴァー)B面収録曲。アメリカではヒットしなかったが、日本ではA面とB面を入れ替え、この曲をA面曲として1962年9月に発売し、大ヒット(イタリア・オランダ・南アフリカでも)となった。その後、日本語訳詞で発売されたザ・ピーナッツや森山加代子のカヴァーもヒットしている。
⑦Something
 本連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ロマンティック・コンサートⅡ~ちいさな愛の1ページ』⑫を参照
(7)電話でキッス
 本連載第6回[アルテス2014年10月号]、伊藤咲子『初恋 ライブ・オン・ステージ』⑪参照。
(8)大人になりたい
 本連載第8回[アルテス2015年2月号]、岡田奈々『セブンティーン! 岡田奈々 バースディコンサート』③参照。
⑧Fever
 1937年頃から歌手活動を始め、1941年にベニー・グッドマン楽団の専属歌手としてデビューしたペギー・リーが、1958年に全米8位に送り込んだ代表曲のひとつ。彼女はジャズやポピュラー音楽の歌手、ソング・ライター、そして女優とオール・マイティに活躍した才人で、この曲の作詞は彼女自身によるものだ。なお、彼女は40年以上のキャリアがあり、代表曲は〈Golden Earrrings〉(1947年:全米2位)、〈Mañana (Is Soon Enough for Me)〉(1948年:全米1位)、〈Riders In The Sky (A Cowboy Legend)〉(1949年:全米2位)、〈Lover〉(1952年:全米3位)などがある。
⑨恋よまわれ
 原題:Gira l’amore。イタリアのアイドル歌手ジリオラ・チンクエッティが1972年に発表した最後のヒット曲。なお日本でのセールス枚数は1万枚弱だった。
⑩Rose Garden
 1970年代に最も成功した女性カントリー女性歌手、リン・アンダーソンが1970年に発表した代表曲で、全米3位(カントリー・チャート1位)を記録し、世界16ヵ国でも1位に輝いている。そんなアンダーソンは、カントリー・チャートに1位を12曲、トップ10には18曲、トップ40ヒットを50曲以上持ち、グラミー賞やアメリカン・ミュージック・アワードも受賞し、1974年には女性カントリー・シンガーとして初めてマディソン・スクエア・ガーデン公演を成功させている。しかし、残念ながら2015年7月30日に心臓発作のため、67歳の生涯を閉じた。
 
「1975年の洋楽ヒット・チャート」については、アルテス2013年11月号、あいざき進也『ジャンプ・オン・ステージ』(p. 33)を参照。
 
 
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『青春賛歌・桜田淳子リサイタル3ライブ』
1976年9月5日/Victor/SJX-8040-1 / VICY-308
国内チャート:10位/2.6万枚
 
①イントロダクション~プロミス・プロミス(Promises, Promises O.S.T. :1968) ②愛を求めて(What the World Needs Now Is Love)(ジャッキー・デシャノン:1965) ③見つめあう恋(There’s a Kind of Hush (All Over the World)) (ハーマンズ・ハーミッツ:1967、カーペンターズ:1976) ④愛がすべて(Can’t Give You Anything (But My Love) )(スタイリスティックス:1975) ⑤When You Smile(ロバータ・フラック:1973) ⑥Daytripper(ザ・ビートルズ:1966、チープ・トリック:1978) ⑦Love(ジョン・レノン:1970、レターメン:1971) ⑧ビートルズ・メドレー:ⓐA Hard Day’s Night(1964)~ⓑHey Jude(1968)~ⓒCan’t Buy Me Love(1964) ⑨Yesterday(1965) ⑩愛ある限り(Love Will Keep Us Together)(ニール・セダカ:1973、キャプテン&テニール:1975) ⑪ベイビー・フェイス(ジャン・ガーバー:1926、リトル・リチャード:1958、ブライアン・ハイランド:1960) ⑫イン・ザ・ムード(グレン・ミラー:1939) ⑬アイ・ウォナ・ビー・ラブド・バイ・ユー(Good Boy O.S.T.:1928、マリリン・モンロー:1959) ⑭サンバ・メドレー:ⓐトリステーサ(アントニオ・カルロス・ジョビン:1968、フランク・シナトラ:1971)~ⓑサンバ・デ・オルフェ(1959) ⑮ゆれてる私 ⑯夏色のおもいで(チューリップ:1973) ⑰青春(かぐや姫:1971) ⑱雲よ風よ空よ(ペギー葉山:1971) ⑲夏にご用心 ⑳ねぇ! 気がついてよ ㉑かあさん ㉒愛の花咲く時(サンドパイパーズ:1968、エンゲルベルト・フンパーディンク:1968) ㉓はじめての出来事
 
 このサード・ライヴは⑱⑲の2曲を連続ベスト3に送りこみ、全国15ヵ所にわたるツアーの初日となった中野サンプラザでの公演が収録されている。
 コンサートの幕開けはバート・バカラックのミュージカル・メドレー。続くは、カーペンターズのリヴァイヴァル・ヒット③を〈わたしの青い鳥〉風のアレンジで聴かせ、ディスコでお馴染みのヒット曲④、1975年の全米1位⑨や、⑤⑥もリズミカルに心地よく聴かせてくれる。リズムや発音が少々甘いパートもあるが、冴えわたる選曲センスに軍配を上げたい。
 また、オリジナル曲⑮は秋田弁でコミカルに披露したり、⑰ではイントロをベイ・シティ・ローラーズ〈Satuday Night〉風に、「S・A・K・U・R・A・D・A・Junko!」の掛け声でノリノリに盛り上げるなど、彼女のステージ運びの上手さが伝わってくる。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
①プロミス・プロミス
 映画『アパートの鍵貸します(Apartment)』を原作とするミュージカルの挿入歌。この曲の登場シーンは、第2幕のエンディングだった。作曲はバート・バカラック、脚本はニール・サイモンが担当している。1968年にブロードウェイで初演され、1972年までに1281回のロングランを続けた大ヒット作。このミュージカルは1969年の「トニー賞」において、数多くの賞にノミネートされ、「ミュージカル主演女男賞」「ミュージカル助演女優賞」の部門で見事受賞に輝いている。
②愛を求めて
 名ソングライター・コンビ、バート・バカラックとハル・デヴィットが1965年に書き下ろし、ジャッキー・デシャノンが歌い全米7位に送りこんだ大ヒット曲。以後、シュープリームス、ジュディ・ガーランドやバリー・マニロウなど、100を超えるアーティストたちにカヴァーされるスタンダード・ナンバー。
③見つめあう恋
 ブリティッシュ・インヴェンジョンで米国進出に成功した英国のバンドのひとつ、ハーマンズ・ハーミッツが1967年に発表したサード・アルバム『There’s Kind Of Hush』(1967年)の先行シングルとしてリリースされた曲。全米では4位、全英でも7位まで上昇した大ヒット曲となるも、バンドにとって最後のトップ10シングルとなった。補足ながら、この曲の編曲は、ジョン・ポール・ジョーンズ(のちにレッド・ツェッペリン)が担当している。1976年にはカーペンターズが『A Kind of Hush(邦題:見つめあう恋)』(第7作)からの第1弾シングルとしてリリースし、全米12位(A.C. チャート1位)を記録している。同年のヨーロッパ・ツアーでもセット・リストに入り、ロンドン公演を収録したライヴ・アルバム『Live In London』でも聴くことができる。
④愛がすべて
 本連載第4回[アルテス2014年4月号]、浅田美代子『美代子のページ』②参照。
⑤When You Smile
 邦題は「君ほほえむ時」。ロバータ・フラックが1973年に発表した『Killing Me Softly(邦題:やさしく歌って)』(第5作)の収録曲で、作者はラルフ・マクドナルドとウィリアム・サルター。なおこのアルバムは全米1位を記録した大ヒット曲〈Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)〉を収録しており、全米チャート3位(R&B2位)まで上昇、ゴールド・ディスクに認定され、翌年のグラミー賞で「Record Of The Year(最優秀レコード賞)」にノミネートされている。
 ちなみに、ロバータはこの部門ではスティーヴィ・ワンダーの『Innervisions』に敗れ受賞を逃したが、シングル〈やさしく歌って(Killing Me Softly with His Song)〉は、「Song Of The Year(最優秀楽曲賞)」を2年連続(1973年は〈愛は面影の中に(The First Time Ever I Saw Your Face)〉)受賞した。なお、この部門の2年連続受賞は彼女のほかには、ベット・ミドラー(1990年〈愛は翼にのって(Wind Beneath My Wings)〉、1991年〈From a Distance〉)のみだ。
⑥Daytripper
 ザ・ビートルズが1965年12月3日に発表した第11作目のシングル(初の両A面シングル)で、片面は〈恋を抱きしめよう (We Can Work It Out)〉だった。全英1位ソングとなったが、日米ではAB面が逆となりこの曲は5位、全米で1位を獲得したのは〈恋を~〉だった。ちなみに、この曲は英国オリジナル・アルバムには未収録だが、「ブッチャー・カヴァー」の呼び名で有名な米キャピトル編集アルバム『イエスタディ・アンド・トゥデイ』に収録されている。なお、この曲はザ・ビートルズにとって初のドラッグ・ソングともいわれ、「日帰り旅行客」と「ドラッグでトリップする人」のダブル・ミーニングが存在する。また若いロック・ファンには、YMO(1979年)やチープ・トリック(1980年)などのカヴァーでもお馴染みのナンバーだ。
⑦Love
 本連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ライブ&モア』⑧参照。
⑧ⓐA Hard Day’s Night
 邦題は「ビートルズがやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ!」。ザ・ビートルズが1964年7月10日に発表した第7作目のシングルで、初主演映画のタイトル曲にしてオープニング・ナンバー。この映画は公開とともに、世界中で大ヒットとなり、この曲も英米ともに1位を記録した。
 この曲は実質的にジョン・レノンの作品で、彼がリード・シンガーだが、中間部の音域が高すぎて歌えず、代わりにポールが歌っている。またこの曲の印象的なイントロ「G7sus4 / D」のコード・ストロークとエンディングのアルペジオは、この映画の監督リチャード・レスターの要求に応えて追加されたパートだった。
 補足をすると、この初主演映画は、ザ・ビートルズのオリジナル・サウンド・トラック盤を発売して一儲けしようと画策したユナイト映画の意向で制作された作品だった。そのため、低予算のモノクロ映画だった。しかし、敏腕監督リチャード・レスターの手腕により、歴史に残る秀作に仕上がっている。ちなみにユナイト・レコードから発売されたサウンド・トラック盤はアメリカでのみ流通した。なお、このタイトルは、長い映画の撮影を終えて疲れたリンゴが発した、「It was a hard day’s night」を聞いていたジョンとポールが、その言葉を採用したものだった。また、邦題に付けられた「ヤァ! ヤァ! ヤァ!」は、ヒット曲〈She Loves You〉のフレーズからとったものだ。
ⓑHey Jude
 ザ・ビートルズが1968年8月30日に発表した第18作目のシングルで、彼らが設立したアップルからのファースト・シングル。アメリカのビルボード誌では、1968年9月28日から9週間連続1位(1968年々間ランキング1位)となり、この1位は1964年の〈抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)〉の7週連続を上回るものであり、同誌年間ランキング第1位を2度獲得したのは、同誌史上初めてのことだった。アメリカだけで400万枚以上、イギリスでは90万枚以上を売り、全世界では1,300万枚のセールスを記録。世界歴代シングル売上第4位(ギネス・ワールド・レコーズ認定)とされている。
 この曲は、ジョン・レノンと妻シンシアとの破局が決定的になっていた頃に夫妻の長男ジュリアン(当時5歳)を励ますために、ポールが書き上げたといわれている。曲全体の半分となる後半部分を「na na na,na na na na… Hey Jude」のリフレインを延々と繰り返し、当時のポップスとしては異例の7分を超えるシングルだった。これは天才ポールだからこそ成し遂げられた傑作といえるだろう。
 なお、1996年にロンドンでこの曲のレコーディング用楽譜類譜が、オークションに出品されているが、これを2万5千ポンドで落札したのはモデルとなったジュリアンだった。
ⓒCan’t Buy Me Love
 ザ・ビートルズが1964年3月20日に発表した第6作目のシングルで、イギリスでは100万枚、アメリカでも210万枚の予約があり、史上初めて予約だけで100万枚以上売れたシングルとなった。ギネス世界記録には史上最も予約枚数があったレコードとして記載されている。当然ながら英米ともに1位を記録したが、ビルボード誌では1964年4月4日付で初登場から2週で1位を獲得している。この記録は1995年9月2日付でマイケル・ジャクソンの〈You’re Not Alone〉が初登場1位を記録するまで、約30年間破られることのない偉業だった。
 この曲のメイン・ライターはポール・マッカートニーで、イントロはなく、いきなりタイトルを叫ぶポールのシャウトから始まり、最後もタイトルを連呼して終わらせているが、これは曲に強いインパクトを持たせようとしたプロデューサー、ジョージ・マーチンのアイデアだった。なお、この曲は初主演映画に既存曲として唯一採用されている。
⑨Yesterday
 1965年に発表されたザ・ビートルズ第5作アルバム『Help!(邦題:4人はアイドル)』の収録曲で、彼らを20世紀最大の音楽家と称賛されるきっかけとなった曲のひとつ。米国では同年シングル・カットされ、4週連続1位を記録したが、英国においては彼らの活動中にはシングル発売されていない。
 この曲は実質的にはポール・マッカートニーの作品で、弦楽四重奏をバックにしたアコースティック・バラードをザ・ビートルズ名義で発表したものだった。世界中のミュージシャンに数多くカヴァーされ、その数はビートルズ活動時点ですでに1000を超え、「世界で最も多くカヴァーされた曲」として「ギネス・ワールド・レコーズ」にも認定されている。
⑩愛ある限り
 米国の夫婦デュオ、キャプテン&テニールのメジャー・デビュー曲で全米1位を記録した代表曲。そんな彼らは、ビーチ・ボーイズのツアー・メンバー時代に意気投合して結成されたコンビだった。その後、自主制作した〈君こそすべて(The Way I Want to Touch You)〉がA&Mに認められ、メジャー・デビューを飾ることになった。そのファースト・アルバムの制作にあたり、ニ―ル・セダカが1974年の発表した『Sedaka’s Back』(日英では10㏄がバック・アップして話題となった1973年の『The Tra-La Days Are Over』)に収録されたこの曲を録音。そのセンスの良い仕上がりで大ヒットとなり、ブレイクを果たした。またこのヒットに便乗してリリースしたスペイン語盤も大ヒットを記録し、彼らは1976年に「グラミー賞」の「最優秀レコード(Record Of The Year)」を受賞している。
⑪ベイビー・フェイス
 1926年にジャン・ガーバーが全米1位に送り込んだ大ヒット曲。その後、1958年にはリトル・リチャードがカヴァーして全米41位(R&B21位)に送り込み、翌1959年には全英2位まで上がるヒットとなった。日本では、1960年にブライアン・ハイランドのカヴァーが独自ヒットし、これに便乗リリースした田代みどりの日本語訳詞カヴァー盤もヒットした。
⑫イン・ザ・ムード
 本連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ロマンティック・コンサートⅡ~ちいさな愛の1ページ』を参照。
⑬アイ・ウォナ・ビー・ラブド・バイ・ユー
 邦題は「あなたに愛されたいのに」。1928年にミュージカル『Good Boy』のために、ハーバート・ストザート、ハリー・ルビー、それにバート・カルマによって書き下ろされた。その後、1959年に映画『お熱いのがお好き』で主演のマリリン・モンローがあまくとろけるような歌唱で披露し、最も有名な演奏の一つとして広く知れ渡った。なおモンローは、この好演により翌1960年に「ゴールデングローブ賞主演女優賞」の「ミュージカル・コメディ部門」を受賞した。
⑭ⓐトリステーサ
 ボサノヴァの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンが「ザ・ヴォイス」フランク・シナトラの1967年のアルバム『Francis Albert Sinatra & Antônio Carlos Jobin』のために書きおろしたボサノヴァ。ただこのアルバムの収録には間に合わず、この曲が収録されたのは1971年の『Sinatra & Company』となった。
 ちなみに、この曲の初出は1968年にリリースされたジョビンの最も成功したサード・アルバム『Wave』(ジャズ・チャート5位)だった。ここにはインストルメンタル・ヴァージョンが収録されている。
⑭ⓑサンバ・デ・オルフェ
 1959年のカンヌ映画祭グランプリを獲得したヴィニシス・ヂ・モイラスによる1956年の戯曲〈オルフェウ・ダ・コンセイサゥン〉を映画化した『カーニヴァルの朝(黒いオルフェ)』挿入歌。作者はルイス・ボンファで、ジャズ系のミュージシャンをはじめ多くのプレイヤーにカヴァーされているボサノヴァのスタンダード。
⑮夏色のおもいで
 1972年に〈魔法の黄色い靴〉でデビューし、1973年4月に発表した〈心の旅〉でブレイクしたチューリップが、同年10月に発売した通算4枚目のシングル(14位:12.2万枚)。本作は松本隆の作詞家デビュー曲で、また、チューリップの楽曲の中でメンバー以外が作詞した唯一の曲。
⑯青春
 1970年に南こうせつを中心に結成されたかぐや姫が、1971年に伊勢正三と山田パンダを迎え入れ、再結成された第2期かぐや姫の再デビュー曲。
⑰雲よ風よ空よ
 1960年に発表したNHK「みんなのうた」のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中歌〈ドレミの歌〉の訳詞や、1964年の大ヒット〈学生時代〉で、幅広い人気を持つペギー葉山が、1971年に発表したヒット曲(85位:2.4万枚)。
㉑愛の花咲く時
 原題:Quando m’innamoro。1968年のサンレモ音楽祭で、Anna Identiciとサンドパイパーズの歌唱で披露され、6位入賞を果たしたカンツォーネ。その後、バリー・メイソンの英詞で〈A Man Without Love〉のタイトルがつけられ、同年イギリスのポップ・シンガー、エンゲルベルト・フンパーディンクが歌い、全英2位全米19位のヒットを記録した。
 
「1976年の洋楽ヒット・チャート」については、アルテス2014年1月号、アグネス・チャン『また逢う日まで』(p. 27)を参照。
 
 
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『淳子リサイタル4 ~ラブトゥゲザー』
1977年11月5日/Victor/SJX-8064-5 / VICY309-310
国内チャート:25位/0.8万枚
 
①Opening~歌が生まれるとき ②Baby Love(シュープリームス:1964) ③ねぇ! 気がついてよ ④二人のラヴ・ソング(All You Get from Love Is a Love Song)(スティーヴ・イートン:1975、カーペンターズ:1977) ⑤ⓐ踊り明かしましょう~ⓑ踊りあかして(I Could Have Danced All Night)[My Fair Lady O.S.T.:1956 / 1964] ⑥Dancing Queen(アバ:1977) ⑦十九と二十(はたち)じゃ大違い ⑧悲しきサルッコちゃん ⑨教会へ行こう(Get Me To The Church On Time)[My Fair Lady O.S.T. :1956/ 1964] ⑩、セクシー・ギャング ⑪ラブ・レター ⑫30年後のゆれてる私 ⑬アメリカン・パトロール(私の東京)[American Patrol Op.92(グレン・ミラー:1942)] ⑭歌っていれば幸せ(Let Me Sing and I’m Happy)(1927-31) ⑮仕事がいっぱい(A Lot of Livin’ to Do)[Bye Bye Birdie O.S.T.:1960] ⑯ダイアナ(ポール・アンカ:1957) ⑰夏にご用心 ⑱黄色いリボン ⑲ⓐドミニク(シンギング・ナン:1963)~ⓑクワイ河マーチ(ミッチ・ミラー:1957)~ⓒスワニー河(1851、レイ・チャールズ:1957)~ⓓ聖者の行進 ⑳冷たい雨 ㉑ディス・ガイ(This Guy’s in Love with You)(ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス:1968、ディオンヌ・ワーウィック:1969) ㉒もう戻れない ㉓私の青い鳥 ㉔はじめての出来事 ㉕花占い ㉖追憶(The Way We Are)(バーブラ・ストレイザンド:1974、グラディス・ナイト & ザ・ピップス:1975) ㉗君の瞳に恋してる(Can’t Take My Eyes off You)(フランキー・ヴァリ:1967、アンディ・ウィリアムス:1969、ボーイズ・タウン・ギャング:1980) ㉘気まぐれヴィーナス ㉙歌のある限り(Keep on Singing)(ヘレン・レディ:1973)

 東京芝郵便貯金ホールで行われた10代最後のライヴ・アルバム。このライヴ・アルバムは彼女がリリースしたなかでは最長時間のものだが、カットする場所が見当たらないほど充実したものになっている。
 いつものように、選曲センスの良さやライヴならではの聴きどころは多い。まずシュープリームスの②のラストが次曲へラグタイム調の振りでメドレー風になっているところから、このライヴへの期待を高めている。そして、最新アルバム『踊り明かしましょう』から、淳子の声によくフィットした映画『My Fair Lady』挿入歌⑤⑨の出来も良好。これを聴くと、のちのテレビ番組「今夜も最高!」でのタモリと〈スペインの雨(Rain In Spain)〉をコミカルに共演していた場面に繋がっているように感じてしまう。またグレン・ミラーの名演でも知られるマーチの⑬、1960年のミュージカル⑭といった選曲も含め、今回もミュージカルを強く意識したステージだ。そして、スタンダードのカヴァーでは、㉑や㉖はちょっとけだるく歌い、㉗ではドラマティックに盛り上げるなど、ヒット曲を聴かせるだけに終わっていないところに好感が持てる。
 また、このような格調高いナンバーばかりと思いきや、彼女のヒット⑫を30年後(雰囲気は40年後?)を想定した歌詞で、自身をいじったり、他のヒット曲もあらゆるジャンルに置き換え、⑰はミュージカル風、⑱はタンゴ調やオペラ風から演歌調で歌うといったコミカルな演出と盛りだくさんの内容で、今聴いても十分に楽しめる。それは、淳子自身がライヴ・パフォーマーとしての才能がずば抜けているからだろう。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②Baby Love
 1960年代のモータウンを代表する女性グループ、シュープリームスの代表曲のひとつで、1964年に(〈Where Did Our Love Go〉に続き)2曲目の全米1位に輝いている。作者はモータウンの黄金時代を支えたソングライター・チーム「ホーランド=ドジャー=ホーランド」。なお、彼女たちはこの曲に続き〈Come See About Me〉〈Stop! In The Name of Love〉〈Back in My Arms Again〉と5曲連続全米1位獲得という偉業を成し遂げ、米国を代表するトップ・グループに躍り出た。
④二人のラヴ・ソング
 シンガー・ソングライター、スティーヴ・イートンの名作アルバム『Hey Mr. Dreamer』収録曲。この曲は再結成ライチャス・ブラザースがヘヴン・レコードでの第2作『The Sons Of Mrs. Righteous』(1975年)に取り上げた。その後、カーペンターズが1977年に発表した第8作『パッセージ』に収録し、ファースト・シングルとして全米35位を記録。また、キャンディーズも1977年の第9作『Candy Label』に収録し、その別Mixを第15作シングル〈アン・ドゥ・トロワ〉のカップリング曲に採用している。
⑤ⓑ踊りあかして
 1956年に初演となったミュージカル『My Fair Lady』の挿入歌。ステージでは主人公のイライザが召使たちに「就寝時間」といわれても、ひと晩中踊り続けるシーンのBGMになっている。なお、この曲は〈スペインの雨(The Rain In Spain)〉と並び、このミュージカルを代表する曲のひとつといわれている。ちなみにこの作品は、1963年に翻訳版が日本でも舞台公開され、1964年にはオードリー・ヘップバーンの主演で映画化されている。
⑥Dancing Queen
 本連載第12回[アルテス2015年7月号]、南沙織『SAORI ON STAGE』②参照。
⑨教会へ行こう
 ミュージカル『My Fair Lady』の挿入歌で、本編では〈時間通りに教会へ!〉という邦題がつけられている。ステージでは主人公イライザの父親ドゥーリトルが、内縁の妻と結婚式を挙げるために、教会に向かうシーンに使用されている。
⑬アメリカン・パトロール
 「アメリカの第2国歌」とも称される〈ムーンライト・セレナーデ〉を誕生させたグレン・ミラーの代表曲のひとつで、1942年に15位まで上昇している。躍動感にあふれ、気分の高揚を抑えられないこのナンバーは、マーチング・バンドの定番ソングとして幅広く親しまれている。
⑭歌っていれば幸せ
 1907年生まれの米国の作詞・作曲家アーヴィング・バーリンが半世紀にわたる音楽活動で、1927~31年頃に発表した作品。なお、彼は正式な音楽教育を受けたことはなく、楽譜の読み書きはできなかったが、〈White Christmas〉〈God Bless America〉など数々の名曲を誕生させた。そんな彼を、アメリカ音楽を作り上げた作曲家ジョージ・ガーシュウィンは「米国のシューベルト」と称えている。
⑮仕事がいっぱい
 1960~61年にブロードウェイで大評判となったミュージカル『バイ・バイ・バーディー』の挿入歌。この曲の登場するのは第2幕で、コンラド・バーディー、キム・マカフィーとティーンネージャーズによって歌われている。なお、この作品は1957年のエルヴィス・プレスリーの米国陸軍入隊をヒントに制作されたもので、「トニー賞」を受賞するほどの成功を収めている。
⑯ダイアナ
 カナダ出身のポップ・シンガー、ポール・アンカが1957年(当時16歳)に自身の弟のベビーシッターへの片想いを綴って書き上げたデビュー作。この曲は全米2位(全英1位)まで上昇し、本国だけで900万枚(英国では125万枚)ものセールスをあげ、一躍スターダムに上り詰めた。なお当時、「ロカビリー・ブーム」に沸いていた日本では、1958年に山下敬二郎や平尾昌晃による日本語詞のカヴァーも大ヒットとなっている。
⑲ⓐドミニク
 ベルギー生まれの修道女シスター・リュック・ガブリエル(本名:スール・スーリール)がベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院の若い尼僧女たちとレコーディングした『ドミニク・聖女の花園』に収録された一曲。1963年に本国で発売されたこのアルバムは欧州中でヒットとなり、『シンギング・ナン』のタイトルで米国でも発売された。そして、この曲がシングル・カットされ、4週連続全米1位という大ヒットを記録し、彼女は一夜にして国際的スターとなった。その後、スール・スーリール(シスター・スマイル)の芸名を名乗って、翌64年には『エド・サリヴァン・ショー』にも出演している。なお、日本ではペギー葉山やザ・ピーナッツなどにカヴァーされ、評判となった。
ⓑクワイ河マーチ
 1957年の映画『戦場にかける橋(The Bridge on The River Kwai)』の主題歌としてミッチ・ミラー・オーケストラが発表した行進曲。日本では、1958年6月に発表された伊東ゆかり(当時、小学校5年)のデビュー曲として知られている。
ⓒスワニー河
 ニューヨークのブラック・フェイス(黒人扮装)一座であるクリスティーズ・ミンストレルズが演奏するために、スティーブン・フォスターが1851年に書き下ろした曲。別名〈故郷の人々(Old Folks at Home)〉ともよばれ、フロリダ州の公式州歌にもなっている。
 レイ・チャールズが1957年にカヴァーを発表し全米34位(R&B 14位)のヒットを記録した。また、1972年には、〈黒い炎 (Get It On)〉を大ヒットさせたブラス・ロック・グループのチェイスが、セカンド・アルバム『Ennea(邦題:ギリシャの神々)』にカヴァーを収録している。
ⓓ聖者の行進
 〈聖者が街にやってくる〉の日本語題でも知られるディキシー・ランド・ジャズのひとつ。もともとは米国の黒人の葬儀の際に演奏された曲で、埋葬に行くときには静かな調子で、埋葬の時は悲しげに。埋葬が終わると、この曲でパレードをして帰っていった。現在は、スポーツの応援歌として、英国プレミアリーグのサウサンプトンFCや、NFLのニューオリンズ・セインツではオフィシャル・ソングにもなっている。
㉑ディス・ガイ
 A&Mレコードの創設者のひとりであるハーブ・アルパートが率いたティファナ・ブラスが1968年に発表した彼らにとって初の全米1位(4週間、イージーリスニング・チャートでは10週間)獲得曲。当然のことながら、この曲を収録した彼らの第10作アルバム『The Beat of the Brass』も全米1位に輝いている。ちなみに、彼の所属するA&Mにとっても初全米1位曲で、この曲の作者で1960年代に多くの名曲を生み出した、バート・バカラックとハル・デヴィッドにとっても初の全米ナンバー・ワン・ソングとなった。そして、翌年3月には当時“黒い真珠”と呼ばれた黒人女性歌手ディオンヌ・ワーウィックが、「ガイ」を「ガール」に置き換えたカヴァーをリリースし、全米7位まで上昇するヒットとなった。
㉖追憶
 本連載第7回[アルテス2014年12月号]、大場久美子『さよなら ありがとう』⑬を参照。
㉗君の瞳に恋してる
 本連載第7回[アルテス2014年12月号]、岩崎宏美『ロマンティック・コンサートⅡ~ちいさな愛の1ページ』を参照。
㉙歌のある限り
 本連載第8回[アルテス2015年2月号]、岡崎友紀『ライヴ!岡崎友紀 マイ・コンサート』を参照。
 
「1977年の洋楽ヒット・チャート」については、アルテス2014年12月号、岩崎宏美『ラブ・コンサート・パート1~新しい愛の出発~』P36-37を参照。
 
 
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『LIVE!淳子リサイタル5』
1978年11月5日/Victor/SJX-20088 / VIC311
国内チャート:69位/0.3万枚
 
①序曲~One After 909(ザ・ビートルズ:1970) ②Rock’n’Roll PartyQueen (Louis St.Louis) (GREASE O.S.T.:1972、オリヴィア・ニュートン・ジョン:1978) ③Fredy My Love(GREASE O.S.T.:1972、1978) ④We Go To Together(GREASE O.S.T.:1972、オリヴィア・ニュートン・ジョン&ジョン・トラボルタ:1978) ⑤レッツ・ダンス ⑥Once Upon A Time(ドナ・サマー:1977) ⑦20才になれば ⑧しあわせ芝居 ⑨Thank You For The Music(アバ:1977) ⑩Stain’ Alive(ビージーズ:1978) ⑪Fairly Tale High(ドナ・サマー:1977)
 
 このライヴも前作に続き、東京芝郵便貯金ホールにて収録されたものだが、これまで彼女のステージを支えてきた宮嶋章が離れた初のライヴだった。しかし、この年は中島みゆきとのコラボが成功し、ひとりのシンガーとしてさらに自信がみなぎったパフォーマンスを聴かせている。
 なんといっても、このライヴ作に自身のヒット曲は⑦⑧のみにとどめ、前作ライヴ以上にマルチなシンガーぶりを披露している。それはこれまで以上に、ミュージカル・ナンバーの比重を大きくしていることからもよくわかる。今作には、『GREESE』からの②③④で、とくに小悪魔っぽい②と、③の切なさは格別な出来だ。またディスコ・クイーンに君臨していたドナ・サマーの⑤⑥も、淳子のはじけた魅力で一気に乗せられてしまう。意外な選曲としてはザ・ビートルズの①だが、淳子カラーに染め上げ、原曲を感じさせない仕上がりでおもしろい。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
①One After 909
 ザ・ビートルズのラスト・アルバム『Let It Be』収録曲だが、もともとはクォリー・メン時代の1960年頃にジョンがポールの家で完成させていたといわれる曲。最初、1963年の〈From Me To You〉のセッションで録音されたが没になった。1969年の「ゲット・バック・セッション」で改めて取り上げられた。アルバムには1969年1月30日に、ビートルズが所有するアップル・レコードのオフィスが入居していたビルの屋上で敢行された「ルーフトップ・コンサート」のライヴ録音で収録されている。
②Rock ‘n’ Roll Party Queen
 1971年にシカゴで初演されたミュージカル『グリ-ス』の挿入歌。1972年2月14日からオフ・ブロードウェイで上演され、その年の「トニー賞」に於いて「最優秀ミュージカル作品賞」を始め7部門でノミネートされた。その後1972年6月より舞台をブロードウェイに移し、3388回のロングラン公演を成功させている。そして、1978年にはパラマウント映画でオリヴィア・ニュートン・ジョンとジョン・トラボルタの共演で映画化され、この曲はルイス・セント・ルイスが歌っている。なおこのサウンド・トラック・アルバムは世界中で1位を獲得する大ベスト・セラーとなり、日本でも30万枚を超すセールスを上げ、堂々のトップに輝いている。
③Fredy My Love
 ブロードウェイ・ミュージカル『グリ-ス』の挿入歌。1978年の映画化の際には、シンディ・バレンスが歌っている。
④We Go To Together
 ブロードウェイ・ミュージカル『グリ-ス』の挿入歌。1978年の映画化の際には、オリヴィア・ニュートン・ジョンとジョン・トラボルタ&キャストが歌っている。
⑥Once Upon A Time
 本連載第7回[アルテス2014年12月号]、大場久美子『さよなら ありがとう』⑦を参照。
⑨Thank You For The Music
 スウェーデンが生んだスーパー・グループ、アバが1977年に発表した第5作アルバム『The Album』の収録曲。ちなみにこのアルバムは、全世界で1位となった〈ダンシング・クィーン〉を収録した前作『Arrival』に次いで全英1位を獲得し、全米でも彼ら自身の最高位となる14位にランクされている。
⑩Stain’ Alive
 連載第13回、西城秀樹『BIG GAME’78 HIDEKI』⑬を参照。
⑪Fairly Tale High
 ドナ・サマーが1977年に発表した初の2枚組アルバム『Once Upon a Time』(第6作)収録曲。シングル・カットされたのはドイツのみだったが、全米でも人気が高く、全米ダンス・チャートの1位に輝いている。
 
「1978年の洋楽ヒット・チャート」については、アルテス2014年12月号、岩崎宏美『ラブ・コンサート・パート2~ふたりのための愛の詩集~』(p. 140–141)を参照。
 
 
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『淳子スーパー・ライブ・リサイタル6 』
1979年12月1日/Victor/VIC311

国内チャート:圏外
 
①序曲 ②September(アース・ウィンド&ファイヤー(以下EWF):1978) ③サンタモニカの風 ④しあわせ芝居 ⑤Frank Mills(Hair O.S.T.:1967) ⑥Born To Be Wild(ステッペン・ウルフ:1968、スレイド:1972、ブルー・オイスター・カルト:1975、バスター:1978)  ⑦Un Accident(ミッシェル・サルドゥー:1975) ⑧陽はまた昇る(Here Again)(アレッシー:1977) ⑨Hot Stuff(ドナ・サマー:1979) ⑩ディ・ドン(Ah! Dis donc, dis-donc)(ジジ・ジャンメール:1975) ⑪Last Dance(ドナ・サマー:1978) ⑫パーティー・イズ・オーバー ⑬ヒット・メドレー:ⓐねぇ気がついてよ ⓑあなたのすべて ⓒ夏にご用心 ⓓ気まぐれビーナス ⓔ追いかけてヨコハマ ⓕリップスティック
 
 このライヴは1970年代のラストを飾る、彼女にとって最後のリサイタルとなった渋谷公会堂での公演が収録されている。セールス的には惨敗となってしまったライヴ・アルバムではあるが、聴きどころの多い充実作だ。
 まずディスコ・ソングの定番②をレゲエ調にアレンジして、淳子ポップスの傑作③へスムースにつなげる巧みなアイデアは前作ライヴでも見られた手法で、ステージングの上手さが伝わってくる。そして、これまでのライヴでも恒例となっていたミュージカル・ナンバーも⑤⑩でそつなくこなし、盛り上げに欠かせない洋楽カヴァーも⑥⑨⑪といったチョイスで、優れたパフォーマーとしての意気込みが十分に伝わってくる。中でも、セリフ入りでカヴァーした⑪は、もっとも淳子らしいパフォーマンスだと感じられる。
 なお、このライヴでとくに印象的だったのは、太い声の歓声に混じって聞こえる女性ファンの声援だった。
 
参考1:カヴァー収録曲について
 
②September
 1970年年代後半に最も人気を博したソウル・グループ、EWFが1978年に発表した彼ら初のベスト・アルバム『The Best Of Earth, Wind & Fire,Vol.1』収録曲。シングル・カットされ、翌1979年に全米8位(R&B1位、全英3位)を記録した彼らの代表曲のひとつ。1979年に行われた初来日ステージでは、アンコール・ナンバーとしてエキサイティングなパフォーマンスを披露している。この曲は日本においては〈宇宙のファンタジー(Fantasy)〉と並び、彼らの定番ソングとして絶大な人気を誇るナンバーだ。
⑤Frank Mills
 原題には“The American Tribal Love-Rock Musical”というサブタイトルがあるミュージカル『Hair』の挿入歌。この曲は第1幕の中でクリッシーによって歌われている。この作品はアメリカの若手俳優、ラドとラグニの2人によって作られ、1967年ニューヨークのパブリック・シアターで初演を迎え、評判を得て1968年にブロードウェイへ進出。ロック音楽とミュージカルの融合をはかったロック・ミュージカルの元祖と呼ばれ、無軌道な若者たちが繰り広げる前衛的な劇(全裸シーンも登場)だった。しかし、当時のヒッピー・ムーブメントと、長期化するベトナム戦争への反戦の空気も相まって、1972年までのロング・ラン・ヒットとなり、日本をはじめ世界各国で上演されるほどメジャーな作品となった。また1979年には、ミロス・フォアマン監督によって映画化されている。
 なお、このミュージカルからは、劇の最初と最後の曲をメドレーにしてカヴァーした、フィフス・ディメンションの〈輝く星座(Aquarious~Let The Sunshine In)〉が1969年に全米1位に輝き、1970年の「グラミー賞最優秀レコード賞」を獲得している。
⑥Born To Be Wild
 邦題は「ワイルドでいこう!」。ドイツ出身のヴォーカリスト、ジョン・ケイを中心に結成されたステッペンウルフの最大ヒットであり代表曲。この曲は彼らが1968年2月に発表したデビュー・アルバム『Steppenwolf』収録曲で、この年の6月にサード・シングルとしてリリースされ、全米チャートの2位まで上昇する大ヒットとなった。そして翌1969年には、映画『Easy Rider』(監督:デニス・ホッパー)の主題歌に起用され、世界中で大ヒットを記録した。今やロック史にその名を残す名曲となり、またバイク愛好家のアンセムともなっている。なお、この歌詞に登場する「Heavy Metal」は元々バイクのことだが、いまやロック・ミュージックのジャンルをさす代名詞として定着している。タイトル通り、野性味あふれる曲調は、ライヴでのカヴァーが多いのもうなずける。
 ちなみに、このグループ名はヘルマン・ヘッセの作品『Der Steppenwolf(荒野の狼)』から命名されたもの。そして、曲の作者「Mars Bonfire」は、バンドの前身となったスパロウのギタリストだったデニス・エドモントンのペンネームで、パフォーマーから引退した後にソング・ライターとして使用したものだった。
⑦Un Accident
 フランスの人気シンガー、ミッシェル・サルドゥーの代表曲のひとつ。フランスで1975年にリリースされ、6月28日から3週間全仏1位に輝く大ヒット作。
⑧陽はまた昇る
 1977年のヒット〈Oh Lori〉(全英8位)や、1984年の大ヒット映画『Ghostbusters』の挿入曲〈Savin’ the Day〉で知られる、一卵性双生児の兄弟で結成されたポップ・シンガー・ソングライター・デュオ、アレッシー・ブラザースの書き下ろし。彼らが1978年に発表したセカンド・アルバム『All For A Reason(邦題:ただ愛のために)』の収録曲。シングル・カットはされていないが、ミュージカルのエンディングを連想させるような壮大で強烈なインパクトを感じさせるナンバー。
⑨Hot Stuff
 ドナ・サマーが1979年に発表した第7作アルバム『Bad Girls(邦題:華麗なる誘惑)』(全米1位)からのファースト・シングル(通算20作目)。1978年にリリースされた〈MacArther Park〉に続く2作目の全米1位獲得曲。ディスコ・ブームに沸いていた日本でも大ヒット(17位:15万枚)を記録し、今でもCMに起用されることの多い人気曲。なおこのファンキーなディスコ・ソングの作者の一人ハロルド・フォルターメイヤーはのちに映画『Beverly Hills Cop』(1984年)を手掛けることになる才人キーボーディスト。またソロ・ギターを担当しているのはスティーリー・ダンやドゥービー・ブラザースで活躍したジェフ“スカンク”バクスターだった。
⑩ディ・ドン
 1924年フランスに生まれ、幼少時からバレー・ダンサーをめざしたジジ・ジャンメールのレパートリーのひとつ。彼女は9歳の頃にパリ・オペラ座バレエ団で出会ったローラン・プティ(のちに結婚)が、1949年に結成したバレエ・ド・パリに加わり、1954年以降はスター・ダンサーに上り詰めた。その後、彼女はハリウッドにも進出し、映画『ハンス・クリスチャン・アンダーセン』(1952年)や映画『エニシング・ゴウズ』(1956年)などに出演。その後は、夫と共に60以上のバレエ作品を制作した。この曲は、そんな彼女が1960年代以降に歌手として活動した時期の作品と思われる。
⑪Last Dance
 ドナ・サマーが第16作目シングルとしてリリースした曲。メジャー・ファースト・シングル〈愛の誘惑(Love to Love You Baby)〉に続き2作目のトップ3にランクされたるヒットを記録。この曲は1978年に公開された映画『Thanks God It’s Friday』の挿入歌だった。
 
「1979年の洋楽ヒット・チャート」については、アルテス2014年12月号、岩崎宏美『ライブ&モア』(p. 143–144)を参照。」
 
※補足
 このように桜田淳子はデビューの翌年1974年から1979年までリサイタルからライヴ・アルバムを発表している。そんなライヴ・アルバムのラストとなる第7作は1980年に開催された小ホールでのプライヴェートな雰囲気の『私小説』なるイヴェントだった。このコラムは1970年代のリリース分の紹介に限定しているので、リストのみ掲載しておくが、このライヴは2デイズで行われ、初日は「女子限定」と設定され、「アイドル」という枠に縛られない、素顔の淳子の魅力が凝縮されている傑作といえるだろう。
 
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『私小説〈らいぶ!!博品館劇場』実況録音盤〉』
1980年7月21日/Victor/SJX-30097〉
国内チャート:圏外
 
①私の船出 ②人生は風車 ③ディズニー・メドレー ④夢で逢えたら ⑤グッド・ラック&グッドバイ ⑥ティー・フォー・トゥー ⑦ジェシー ⑧アイ・キャント・レット・ゴー ⑨美しい夏 ⑩秋桜 ⑪化粧 ⑫あなたしか見えない ⑬ディ・ブレイク ⑭アワ・ラスト・ソング・トゥギャザー