カタコト歌謡の近代

「洋楽」と「邦楽」のあわいに生きる「ウナギイヌ」たる「カタコト歌謡」こそが、日本近代大衆歌謡の主流だったのではないか?! ──『創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』でサントリー学芸賞を受賞した気鋭の音楽学者が、そんな新たな視点から歌謡史を洗い直す注目の連載。

輪島裕介
PROFILE

輪島裕介

大阪大学准教授

わじま・ゆうすけ:1974年金沢生まれ。大阪大学准教授。専攻はポピュラー音楽研究・民族音楽学・大衆文化史。著書『創られた「日本の心」神話―「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で2011年度サントリー学芸賞を受賞。共著に『クラシック音楽の政治学』(青弓社)、『事典世界音楽の本』(岩波書店)、『拡散する音楽文化をどうとらえるか』(勁草書房)がある。

第1回 カタコト歌謡への道

これからしばらく「カタコト歌謡」について考えてみたい。 これをテーマとして論じた文章が公になるのはおそらくこれが史上初だろう。というより、「カタコト歌謡」とは、近代(とりわけ昭和以降の)日本歌謡史をある視点から見通すために筆者が案出した分析カテゴリーである。その限りにおいて「カタコト歌謡」の発明者は私だ、といっても過言ではない。ドーダ(©東海林さだお)。 しかし私が思いつくようなことはすでに誰かが言っているに違いない、と慣れない「ドーダ」でにわかに不安になり、Googleで「カタコト歌謡」を検索してみる(国会図書館や大宅文庫や新聞データベースでは引っかからない)。二〇一一年九月二一日現在、ヒットは約二三万一〇〇〇件。むう。気をとり直して内容を見る。ざっと見る限り「カタコト」「片言」と「歌謡」「歌謡曲」を共に含むサイトが表示されているようで、「カタコト歌謡」そのものズバリは少ない。安堵。 トップは「カタコト。」と題された個人ブログのエントリー、「【明星@SJ】060305人気歌謡!」(二〇〇六年三月五日)、内容は韓国の歌謡番組のレビュー。「カタコト歌謡」という用法ではない。「片」さんが台湾・韓国アイドルについて「ひとりごと」をつづるページで、略して「カタコト。」だそう。次はツイッターのログ、「ヤバい!カタコト日本語歌謡曲大好きな人には、超ツボな番組が日テレで今やってます。のどじまんTHE!ワールド(*_*)」というもの(二〇一一年六月二五日 174.36.45.50/5gh5yr)。 次に示されたのがタワーレコードの商品紹介ページ。モノはKARAのCD『ガールズトーク(通常版)』だ。   スリー・ディグリーズの『Internation』がリイシューされて、細野晴臣のペンによる〝ミッドナイト・トレイン〟などの日本語曲をちょうど聴いて思ったんですが、日本にはアグネス・チャンの昔からチリアーノとか初期マルシアとか初期BoAやらココナッツ娘。―と連綿と紡がれてきた〈カタコト歌謡〉の歴史があります。ただ、KARAの日本語曲には言葉の違和感が希薄なので、片言マニア(?)には満足度が低いかもしれません 出嶌孝次 - bounce vol.327(二〇一〇年一一月二五日発行号)掲載(タワーレコード)   ビンゴ! 「カタコト歌謡」の語が特定の音楽群を指示するために用いられている。そのことでこの語が筆者の独創ではないことが証明されたのは残念だが、この評言は本論考で扱うべきテーマの、少なくともある重要な一面を言い当てている。つまり「外国人」(日本語を母語としない人)が日本語の楽曲を歌うのが「カタコト歌謡」であり、その「マニア」にとっては、「言葉の違和感」こそが魅力となる、という洞察である。しかし、この種の歌謡がアグネス・チャンどころではない「昔」から連綿と続いてきたことは、本論考のなかであきらかになるだろう。 さらに興味深い事例に行き当たった。TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の番組サイトだ。二〇一一年四月二七日にサタデーナイトラボ「輝け!〈裏PRAY FOR JAPAN〉歌謡祭!」が放送されている。曰く「世界のミュージックシーンで活躍するトップアーティストたちが『親切にも!』『カタコトの日本語で!』歌ってくれた曲だけをまとめてお届けする〈親切な歌の祭典です〉」(「カタコト歌謡」の語は用いられていない)。曲がカットされた(生殺し!)ポッドキャストを聴いてみたところ、ポリス、デヴィッド・ボウイ、フィル・コリンズ、ニュー・オーダーなど、いわゆる「洋楽」(つまり英語圏のポップ/ロック)の錚々たるミュージシャンたちが日本語で歌う楽曲が紹介されている。「親切」というキーワードは、趣味のヒエラルキーの上位者である「洋楽」のアーティスト様が、ありがたくも「われわれ下々」の日本のファンのために日本語で歌ってくださっている、という構図を強調するために用いられているようだ(もちろんこの企画ではそのような構図自体を問題化しているのだが)。 さすが天下のGoogle様、検索トップページだけで、これから試みる考察の叩き台を見事に提供してくれた。「カタコト歌謡」という語自体はあまり用いられていないにせよ(筆者にはむしろ好都合)、その言葉で筆者が指示しようとする音楽的対象とその社会的・美的な含意については、音楽関係者の間で相当明確に認識されていることがわかる。 それだけではない。前者のように「邦楽」(日本の芸能界)の文脈で語られる場合と、後者のように「洋楽」の文脈で語られる場合では、なんとなく意味合いが異なっている、という気配も感じられる。つまり、前者では、「言葉の違和感」自体が、感覚的な魅力として言及されているのに対して、後者では、日本の音楽好きが有している(いた)「洋楽」と「邦楽」の優劣関係が、「洋楽アーティストのたどたどしい日本語歌唱」によって不安定にさせられる不自然さや居心地の悪さが、「親切」という皮肉なキーワードに焦点化されているといえる。 さらにいえば、前者と後者の「邦楽/洋楽」対立は、かなりの程度ジェンダー化されていそうだ。前者では、チリアーノ(私の世代にとってテレビドラマ『特捜最前線』のエンディングテーマ〈私だけの十字架〉の物悲しさはほとんどトラウマと言ってもいい)を除き、女性の、特に「アイドル」的な傾向を帯びた歌手が列挙されるのに対し、後者では男性の自作自演のロック・アーティストが並ぶ。そして、前者にはアジア系の出自を持つ人々が多く含まれるのに対して、後者はほとんどアングロ・サクソンだ。ここには近現代日本における、ジェンダー、エスニシティ、言語の秩序やヒエラルキーの感覚に関して相当に厄介な問題が含まれていそうだ。 ところで、Google検索の五ページ目では、「【芸能】「少女時代」の魅力は片言の日本語…岡村隆史も彼女達がコンサートで言った「あちゅいでしゅね〜」をずっと真似していた★3」という2ちゃんねるの過去ログが引っかかった。ご想像の通り、「少女時代の片言の日本語が魅力である」とする発言(これはナイナイ岡村ではなくCOWCOW多田のブログがソースなのだが)を非難する、目を覆いたくなる差別的な言辞が並ぶのだが、その「魅力」として「あちゅいでしゅね〜」という、幼児語めいた発音が強調されていることは考えさせられる。カタコト歌謡の魅力は、エスニック・ステレオタイプや偏見、矮小化と結びつきうる、かなり危ういものでもあることは認めざるをえない。 つまり「カタコト歌謡」は「洋楽」と「邦楽」のあわいに生きる「ウナギイヌ」のようなもの、といえるかもしれない。このすっとぼけた、とらえどころのない(なにしろウナギだ)、喜劇的でもあり悲劇的でもある(大抵バカボンのパパに食べられる)、両義的な存在について考えることで、「ウナギ」と「イヌ」のそれぞれに関しても新たな洞察が得られるのではないか。 というだけでは収まらない。というのは、筆者は、この「ウナギイヌ」たる「カタコト歌謡」こそが、実は近代日本の大衆歌謡の主流だったのではないか、少なくとも「カタコト歌謡」の系譜として日本の大衆歌謡史を語ることができるのではないか、と考えているのだ。速水健朗が「タイアップ」という分析視角から一つの近代日本歌謡史を見事に描き出したように(速水健朗『タイアップの歌謡史』洋泉社、二〇〇七)、「カタコト歌謡」という観点からみた近代日本歌謡史が可能であり必要だろう、と本気で思っている。 ただし、そのためには「カタコト歌謡」概念をもう少し拡張する必要がある。「日本語を母語としない歌手による日本語歌唱楽曲」のみならず「非日本語話者の日本語のように歌う歌謡」、あるいは端的に「日本語を英語っぽく発音する歌謡」まで含めることを提案したい。ディック・ミネ、坂本九、キャロル、サザン、ゴダイゴ、佐野元春、Boφwy。ここにトニー谷や内田裕也の英語交じりトークや日本語ラップ及びラップ歌謡を付け加えてもいい。 こう並べると、いわゆるJ−POPとはおしなべて日本語を英語っぽく歌う「カタコト歌謡」なのではないか、という気がしてくるだろう。そしてあの「養老の星☆幸ちゃん」の歌唱は、J−POPの「カタコト性」を暴露し、言語としてほとんど理解不能なレヴェルまで脱構築(書いててちょっと恥ずかしい)するきわめて批評的な実践だったのではないか、とさえ思えてくる。  

  賢明なる読者はもうお気づきだろう。この試みは、昨年上梓した拙著『創られた「日本の心」神話―「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)と対をなしている。拙著では、一般的に日本的、伝統的と考えられている(いた?)「演歌」が、明示的なジャンルとしては非常に新しく成立したものであること、そのジャンル化が、きわめて特異な思想的アクロバットによってなされたものであることを論じた。その過程で、現在では「演歌」に包摂されがちな「日本調」歌謡(小唄調、民謡調、浪曲調その他)の変遷を、特に歌唱法や「声の肌理」に着目して、ある程度通時的に記述した。それに対して本連載でこれから試みる考察は、「日本調」と対比される「洋楽調」の系譜を、同様の観点から辿ろうとするものである。 もうひとつ、前著執筆時点では、具体的な歌手や楽曲への言及は、あくまでも「演歌のジャンル化」という主題を語るための前提と考えていたのだが、読まれる文脈では、幸か不幸か(どういう形であれ読んでいただければありがたいのだが)、これが一種の通史と捉えられている節がある。そこで前著では扱えなかった、しかも私自身としてはむしろ日本のレコード歌謡の「本流」なのではないかと考えている側面について論じ、本格的な通史とはゆかずとも、まがりなりにも筆者の歴史的な見取り図を提示することが必要だろうと考え、この主題に着手するに至った、というわけである。 「カタコト歌謡」への注目は、事例のレヴェルで前著の「演歌」と対をなすだけではない。むしろ演歌の国民文化化を促進したロジックを内在的に批判する、という意図もある。というのは、演歌ジャンル成立後に、それが当初の対抗文化的性質を喪失し、「伝統」と密着した「国民文化」に成り上がって(成り下がって?)ゆく時期に、演歌に代表される近代日本の大衆歌謡は、「正しく美しい」日本語を保持しているという美点を持つがゆえに「西洋かぶれ」の芸術歌曲や学校唱歌よりも真正である、という趣旨の発言がしばしばなされた。民族音楽学者の小島美子は、日本語の発音が不自然な日本のクラシック声楽家を批判して次のように述べる。   歌謡曲などの人びとは、むしろ歌詞から歌に入ってゆく。まず詩をなんども読んで、その意味や感じなどがよくわかり納得したら、初めてメロディを覚えるのである。歌詞の表そうとしているものを伝えることのできないような歌は、歌謡曲の分野ではまったく通用しないからだ。だから歌謡曲の歌手の日本語はよくわかり、そのデリケートな語感さえも巧みに表している人が少なくない。とくに演歌の歌手がそうだ。日本語の発音のおかしな歌謡曲歌手といえばウェスタン調の尾崎紀世彦か、かけ出しの人びとぐらいだが、その尾崎よりもちゃんと日本語が歌えるクラシック歌手が、いったい何人いるだろうか。(小島美子『日本の音楽を考える』一九七六年、音楽之友社、一七頁)  

  小島の場合、日本におけるクラシック至上主義の批判という意図に基づき、それとの対比において「演歌」をはじめとする「歌謡曲」歌手の日本語歌唱を高く評価しているわけだが、近年でも、クラシックの声楽家である藍川由美が、『これでいいのか、にっぽんのうた』や『「演歌」のススメ』(ともに文春新書)といった著書で従来の日本歌曲における日本語の「間違い」を激しく批判しつつ、中山晋平や古賀政男や古関裕而の楽曲を、彼女が考える「正しく美しい」日本語および「正確な」楽譜に基づいて録音している(彼女が『「演歌」のススメ』の中で「ススメ」ている大衆歌曲のほとんどは「演歌」というジャンルが確立する以前のものであり、楽譜や日本語発音の「正確さ」へのあくなき探究心に比して、用語法の歴史的な変遷についての「正確さ」にはまるで無頓着なことが伺えるのは興味深い)。 それに対して、演歌に代表される大衆歌謡の中には正しく美しく伝統的な日本語が息づいている、という幻想とも願望ともつかない考えを、「カタコト歌謡」という観点から相対化することが本論の目論見の一つである。藍川の「これでいいのか、にっぽんのうた」という問いかけに対して、「これでいいのだ」と断言すること、ではないかもしれないが、少なくとも、「いいか悪いかの前に、ほんとにそうなのか、だとしたらなんでそうなのか考えてみましょうよ」ともぐもぐと応えるようなものではあるだろう。 さらに大風呂敷を広げれば、「母語を正しく美しく歌う」ということが、歌を歌い、聴くという行為にとってどの程度重要なのか、もっといえば「歌」と「言語」はどのように関わる(べきな)のか、といった問題に、新たな光を投げかけるような、これは相当に壮大なテーマであると、本気で考えている。  

  前口上が長くなってしまった。今回は日本の流行歌/歌謡曲はそもそもカタコト歌謡として始まったのかもしれない、という話をしよう。取り上げるのは記念すべきカタコト・レコード歌手第一号、バートン・クレーンである(『バートン・クレーン作品集』NEACH RECORDS NEACH-0123、山田晴通「バートン・クレーン覚書」 http://camp.ff.tku.ac.jp/yamada-ken/y-ken/fulltext/02BC.htmlを参照されたい)。〈酒がのみたい〉(一九三一)は大衆音楽史に興味のある方なら絶対に聴いておかねばならない一曲。サトウハチローをして「歌そのものが既に酔っ払っている」といわしめた奇天烈なカタコト歌詞と歌唱だ。ほかにも「太郎は一番のアホですよ」(〈コンスタンチノープル〉)や「ポクポク仔馬」(〈ニッポン娘さん〉)など、破壊力満点のパンチラインが次々繰り出される。 クレーンは英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』の特派員で、東京の花柳界で夜な夜な酔っ払って外国曲に適当な日本語詞をつけて歌っている「ヘンなガイジン」がいる、との噂を日本コロムビアの社長ホワイト氏が聞きつけて、録音させたところ大ヒット、という。実際のところどうだったのかは知る由もないが、ちょっと引っかかりはしないか? 確かに彼の歌はこの上なく素っ頓狂で愉快なシロモノには違いないにせよ、なぜズブの素人のアメリカ人の歌を録音しようと思ったのか、そしてなぜそれが図にあたったのか。 そこにはこの時期の、外資系の参入によるレコード産業の大転換という事件が影を落としている。そしてそれは、本誌の今号のテーマに絡めて言えば、「震災後」という条件に深く規定されていた。 こういうことだ。関東大震災からの復興のために贅沢品の輸入に多額の関税がかけられ、蓄音機とレコードもそこに含まれていた。そこで、すでに日本を大きなマーケットとしていたビクター、コロンビア、ポリドールといったレコード産業の世界的メジャーは、国内の輸入代理店を通すのではなく日本法人を開設し、原盤を輸入し日本でプレスして販売するようになった。さらに、輸入原盤のプレスばかりでなく、海外で開発された録音技術(折しもマイク録音が発明されたばかり)や最新流行の音楽スタイルを用いて日本国内でもレコード制作してみるか、となるのも不自然ではない。 そこで最初に当たったのが、浅草オペラ出身でエノケンの盟友、二村定一が歌った〈青空〉と〈アラビアの歌〉という二曲のティン・パン・アレイ楽曲の日本語盤である(この二曲については三井徹「企画流行歌の誕生期―〈アラビアの唄〉/〈青空〉再考」、三井徹監修『ポピュラー音楽とアカデミズム』[音楽之友社、二〇〇五年]を参照されたい)。前者〝My Blue Heaven〟はいうまでもなく世界中でヒットしたスタンダード中のスタンダードだが、後者〝Sing Me a Song of Araby〟は本国ではどこの誰が録音していたのかもわからない謎の楽曲だ。日本限定で人気の洋楽、いわゆる「ビッグ・イン・ジャパン」のハシリともいえ、これも「カタコト歌謡」と同様、日本における「洋楽」の大衆的受容のきわめて重要な側面だ。 〈青空〉〈アラビアの唄〉(つまりティン・パン・アレイ)のフォーマットを模した国産楽曲として初の大ヒットとなったのが佐々紅華作詞作曲、二村定一歌〈喜味こいし〉もとい〈君恋し〉(一九二八)である(寒い冗談だが、漫才師の芸名に使われるほど流行した、ということだ)。それに続いたのが西條八十作詞中山晋平作曲佐藤千夜子歌〈東京行進曲〉(一九二九)。マイク録音を生かしたフルバンド伴奏を伴うティン・パン・アレイ式の楽曲、という新機軸は、これらが先鞭をつけたと言っていい。ここで、既に別の文脈で流行している曲をレコードに録音するのではなく、レコードとして発売することを前提に新曲が企画・制作される、という転換が起こる。その過程で、制作から流通、小売店までを抱え込む垂直統合方式を導入し、国内の都市部各地に点在していた地場産業的な国産レコード会社を買収・駆逐してゆく。現代のJ−POPまで続く、「レコード発売を前提に企画・制作される欧米フォーマットに則った日本製歌謡」という意味における流行歌/歌謡曲(本稿ではこれを「レコード歌謡」と呼ぶことにする)の産業的な基盤がここにおいて確立した、といってもよい。 さてそれがバートン・クレーンのカタコト歌謡と何の関係が? ポイントは上記のレコードはすべて日本ビクターから発売された、ということだ。ティン・パン・アレイのノックダウン生産というべき日本製ジャズ・ソングで快進撃を続けるビクターへの対抗上、日本市場では日蓄以来の大先輩でもあるライバル会社のコロムビアが面子をかけて見出したのが、夜の巷でカタコトの酒呑みソングを歌う日本駐在アメリカ人、バートン・クレーンであった、というわけだ。ビクターのティン・パン・アレイ式日本語ヒットソングに対抗するために、クレーンの珍妙な「カタコト歌謡」が選ばれ、しかも実際に相当ヒットしたということは、当時のレコード歌謡の位置づけを推測する上でも興味深い。つまり、ここ四〇年ほど「ナツメロ」という括りにがっちり組み込まれている〈君恋し〉や〈東京行進曲〉も含め、当時においてはレコード歌謡というものそれ自体が、「横のものをむりやり縦にした」ような違和感を伴う新奇な舶来風文化であったのではないか。端的に言えば、二村定一も佐藤千夜子も、ひょっとしたら当時の耳には「カタコト的」に聞こえていたんじゃないの? ということだ。 そしてそれは、主に都市の新興中間層と結びついたモダンな夜の巷の享楽、はっきり言えば「酒と女」を歌う、「エロ・グロ・ナンセンス」文化でもあった(〈青空〉の家庭志向は異なるが、新興中間層の生活を歌ったものとして相補的である)。佐々紅華や西條八十が文学的なオブラートにくるんで表現した主題が、非母語話者のクレーンにかかると「酒がのみたい」、「酒と女とは一番よいものだ、これさえ手に入れりゃ現世の極楽だ」(〈おいおいのぶこさん〉)とミもフタもなく言いきられてしまう。過剰なインチキ臭さで酒色の享楽を謳歌する道化、という意味で、たとえばあやまんJAPANとチャラ男藤森の日本語破壊パフォーマンスの中にバートン・クレーンの遠い反響を見出すこともあながち不可能ではない。 なお、旧来の流行歌史では、昭和三〜四年の〈青空〉〈アラビアの唄〉〈君恋し〉〈東京行進曲〉のビクターの快進撃に対し、昭和六年以降コロムビアは「古賀メロディー」で反撃した、といわれる。事実としてはその通りにせよ、これは「洋風」から「和風」への転換と解釈されることが多いが果たしてそうか。クレーンの〈よういわんわ〉(盤面には「ナンセンス小唄」と記されている)は、東京のカフェーの女給との掛け合い仕立て(相手役は淡谷のり子!)で「よういわんわ」をキーワードに大阪の夜の街事情(?)を描くものだが、「あなたが大阪にいらしたとき一番流行の歌はなんでしたでしょう」という問いに対して〈酒は涙かため息か〉を「商売は涙かため息か」と換えて歌いこんでいる。もちろんこの一事をもって、クレーンも「古賀メロディー」も同じだ、ということは到底できないにしても、どちらも都会の夜の「酒と女」に関わるモダン文化として位置づけられていたことがうかがえる(都市モダン文化としての「古賀メロディー」に関しては、映画『東京ラプソディー』(一九三六年)が非常に参考になる)。と、〈よういわんわ〉をYouTube検索すると、関連動画で、日系二世でカリフォルニアから来日したジャズ歌手・森山久(良子の父、直太朗の祖父、そしてムッシュかまやつの叔父)と思しき歌手による〈酒は涙かため息か〉英語版ジャズ編曲がアップされていた(動画タイトルでは「藤山一郎」となっていたが)。和製ジャズ・ソングと「古賀メロディー」の距離の近しさを示す好例といえる。この音源の素性の追及は私の手には余るものだが、この事例は、次回テーマへの絶好の橋渡しでもある。 ということで、次回は「二世歌手とニセ二世」でお会いしましょう。それではビールをくれたまえ!

第2回 二世歌手とニセ二世

戦前日本ジャズのリバイバル・ブーム

このところ、戦前日本ジャズの研究・復刻が大変な活況を呈している。今回のテーマは、その蓄積に大幅に依拠しているため、まずは簡単に言及しておきたい。 学問研究の文脈では、合衆国の歴史学者による通史、Taylor Atkins, Blue Nippon(2001)や、マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(二〇〇五)が日本ジャズへの注目を高めたことは間違いない(これらも含むジャズ研究の最新動向は、意欲的なアンソロジー『ニュー・ジャズ・スタディーズ』にまとめられている。さて、版元はどこだったか)。 しかし、音楽好きの広範な関心を集めるようになったのは、この分野の第一人者・瀬川昌久氏の名著『ジャズで踊って』(初刊一九八三)が二〇〇五年に復刊され、翌二〇〇六年には前回取り上げたバートン・クレーンの復刻CDが『レコード・コレクターズ』誌のリイシュー・アルバム「日本のロック/歌謡曲/芸能」部門第一位に選ばれたあたりがきっかけだろうか。同年には同盤の配給会社であったブリッジが自社レーベルから『日本のジャズ・ソング』(これは一九七六年のLPセットの再復刻)を発表し、その後もハタノ・オーケストラや、後に触れる童謡ジャズ、服部良一未復刻曲集など、きわめて意義深い復刻を数多く行っている。 二〇〇九年には、大谷能生による瀬川昌久の聞き書き『日本ジャズの誕生』が刊行されており、これは菊地成孔と大谷が進めてきた「ジャズ史の書き直し」の一環に戦前日本を位置づけるものといえる。 さらに、直近の動きとして、二〇一〇年に刊行された毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』をうけて、レコード会社をまたいだ大規模な復刻CD企画『ニッポン・モダンタイムス』が昨年末よりスタートしている。各盤の詳細には立ち入らないが、このケッタイな連載を楽しんでくださるほどの風流な方であれば問答無用でコンプリートすべき驚くべき内容、とだけ申し上げておく。普段ならまったく面白味に欠けるいけすかない堅物のイメージしかない(注・個人の感想です)藤山一郎でさえ愛らしく思えるような絶妙の選曲で楽しませてくれる  

  戦前日本ジャズの一種の「ブーム」ともいうべき状況は、今回が初めてではない。一九八〇年代にも若干似た動きはあった。その中心はいうまでもなく、先日逝去した斎藤燐の戯曲『上海バンスキング』(一九七九年初演)であった。オンシアター自由劇場のロングラン公演のほか、二度にわたる映画化がなされた。同作のための取材がもとになった戦前のジャズ・ミュージシャンの聞き書き『昭和のバンスキングたち』が『ミュージック・マガジン』に連載され、若い音楽ファンの注目を集めた。 さらには主演女優・吉田日出子のヴォーカル・アルバムも大成功を収め、〈林檎の木の下で〉〈ウェルカム上海〉などは、一種スタンダード・ナンバー的な地位を獲得した(なお、浅草オペラ、アーニー・パイル劇場、ムーラン・ルージュを題材にした戯曲、西條八十や藤原義江を扱った「昭和不良伝」シリーズなど、近代日本の大衆文化における「西洋」の光と影を鋭く描いた斎藤燐の仕事については別の機会に(もっと修行を積んだ後に)論じてみたい。ご冥福をお祈りする)。  

川畑文子―全米のスターが日本デビュー

さあ、ようやく今回のお題に辿り着いた。勘の良い方はおわかりだろう。吉田日出子のちょっと舌足らずで甘ったるくねばっこいあの独特のヴォーカル・スタイルは、日系アメリカ人歌手として最初に来日し、昭和八年からのわずか数年の間にめざましく活躍し多くのフォロワーを生んだ川畑文子の歌唱法を真似たものだったのである(以下、本稿では戦前の「日系アメリカ人歌手」を「二世歌手」と称する)。 たどたどしい日本語発音で歌われる川畑の歌唱は、音楽学校出身者のベル・カントとも、芸者歌手ののどを閉めた発声とも全く異なるもので、当時「マレーネ・ディートリッヒのような」としばしば形容された。連想を逞しくすれば、こちらが吉田日出子のフィルターを通して聴いてしまうせいもあり、音程の微妙な不安定さや棒読み風のアーティキュレーションも含めて一九八〇年代ニューウェーヴ的レトロ趣味とも親和的である。バンドブーム前夜のインディーズ・バンドの女性ヴォーカルというか、昔の清水ミチコが真似しそうな感じ、というか。さらに勝手な連想を重ねれば、この川畑文子=吉田日出子のラインは、若干のアストラッド・ジルベルト風味を加えて、現在でも小野リサ、クレモンティーヌ、アン・サリーといったあたりにまで引き継がれているのではないだろうか。 アリス・フミコ・カワハタは一九一六年に日系一世の父、二世の母の間にハワイで生まれた。三歳で転居したLAでダンスを学びはじめ、一三歳にしてニューヨークに移り、映画・放送・興行にまたがる一大メディア・コングロマリットとして一九二九年に設立されたばかりのRKOと専属契約を交わし全米を公演するスター・ダンサーとなった。「琥珀色のジョセフィン・ベイカー」の異名を取ったという彼女が日本を訪れた事情は、管見の限りはっきりしない。ディック・ミネは「奇術師の[松旭斎]天勝が世界をまわってアメリカでひろって連れて来たんだから」と述べている。彼女の生涯を小説として描いた乗越たかお『アリス ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』によれば、目を患っていた母方の祖母を生まれ故郷に連れて帰るために強引に休暇をとっての「お忍び」であったという。 いずれにせよ、一九三二年九月に来日した彼女は、翌年二月になって日本コロムビア社と専属契約を結び日本での芸能活動を開始する。RKOとの専属関係を重視するならば日本コロムビアではなく、RKO系列のRCAを親会社に持つ日本ビクターと契約するのが自然な流れなのだが、このことは、彼女の日本での芸能活動が、少なくとも日系スターを売り込むために米メディア企業によって仕組まれたというようなものではなかったことを示しているだろう。むしろ「お忍び」で来日した彼女の日本での芸能活動は、日本のショービジネスの側からの要求に基づくものだったと考えられる。 日本コロムビアが専属契約を結ぶにあたっては、同社のカタコト歌手バートン・クレーンの成功が当然念頭にあっただろう。川畑の歌うジャズ・ソングの日本語訳詞を行ったのは、クレーンと同様、後の東宝重役・森岩雄だった。瀬川昌久は、「異色外人、バートン・クレーンによって始められたタドタドしい日本語と本場の英語ジャズを唄うパターンが、彼女のユニークな発声と唱法によって更に確立され、一世を風靡した」と述べ(『日本のジャズ・ソング 二世ジャズシンガー川畑文子』解説)、その理由の一端を次のように説明している。   デビュー曲「三日月娘」の「何たる今宵は、暗い夜でしょ」の「何たる」というところが、文章としてはおかしいのに、ぴったりと節にあって、魅力にさえなった。このところがこの歌の大ヒットだと、藤浦洸がほめている。森岩雄自身は、「泣かせて頂戴」という曲の訳詞がいちばん気に入った、といっている。大胆な自由訳でぎこちない日本語になったが、それがまた川畑がうたうとなんともいえない魅力になって、新橋あたりで大いに流行して森も得意になったそうである。(『ジャズで踊って』一六六頁)   残念ながら、藤浦の発言の出典をつきとめることはできなかったのだが、「何たる」という文法的な破格や「ぎこちない日本語」、本稿の言葉でいえば「カタコト」性を積極的な魅力とする見方がすでに同時代に存在していたことがわかる。  

「ザッツ・オーケー」が流行語に

ところで、話題は遡るが、昭和初期の日本コロムビアにおける「カタコト」企画の誕生に関して興味深い資料を入手したので、ぜひとも見せびらかし、もとい紹介しておきたい。大正一四年に日本コロムビアの前身、日本蓄音機商会に入社し、後にテイチクに転じたレコード・ディレクター川崎清の回想録『レコード盤と共に』(私家版)である(明治大学在学中の学生社長ならぬ社長学生、平川亨氏が発見されたものを譲っていただいた。記して感謝申し上げたい)。 川崎は、昭和五年に〈ザッツ・オーケー〉を企画している。同曲はクレーンの〈酒が飲みたい〉(一九三一)に一年先立つものであり、レコード会社企画の日本製楽曲としてはおそらく初めて英語フレーズをタイトルに冠したものである(もちろん、「ジャズで踊ってリキュルで更けて」の〈東京行進曲〉からも明らかなように、日本語化された英単語の使用はこの時点で既に珍しいものではなく、その気になれば明治の〈ダイナマイトどん〉まで遡りうる。英語フレーズを用いた歌も、大正期の書生節〈アイドントノー節〉などがあり、〈ザッツ・オーケー〉が全く初めてというわけではないが今回は問題にしない。本連載の中で「レコード以前のカタコト歌謡」についても扱う機会が持てればと考えている)。 川崎によれば、昭和四年に新社長に就任したL・H・ホワイトの下で日本蓄音器商会から日本コロムビアと社名変更し、外資導入、電気録音などの一大改革が断行された結果「従来のようにただ名人の芸を選んで録音するという時代は次第に過去のもの」となり、「代わって会社自身が新しい企画をたて、購買者の需要に応えるべく広いアイデアのもとに意欲的な制作に努力を傾け」るようになった、という(六二頁)。川崎は、そこでのレコード・ディレクターの仕事を映画監督に比較してもいる(ただし、その「権威」の違いを自嘲しながらではあるが)。 このような企画重視の流れの中で、従来から「英語万能で、重要書類や支払伝票などすべて英語」(六一頁)であった同社では「OK」や「NG」という言葉が日常的に用いられており、川崎はその点に注目して「ザッツ・オーケー」という言葉を流行歌に取り入れ流行語にしようと考えた、という。それを松竹宣伝部長に相談したところ、同宣伝部嘱託の明治大学講師・畑耕一を作詞家として紹介され、これを主題歌にした映画『いいのね誓ってね』ともども流行した。川崎は、「自分の企画によって『ザッツ・オーケー』という言葉が一般人の流行語になったことは喜びにたえませんでした」と誇らしげに記している(七二〜七五頁)。もちろん、〈ザッツ・オーケー〉だけが、クレーンから川畑文子に至るカタコト・ジャズ・ソングを準備した、と主張するつもりは全くないが、レコード制作における社員ディレクターの中心的役割、外資系レコード会社の英語万能の風潮、映画産業とのタイアップ、という、昭和初年のレコード歌謡草創期の、やや軽薄でハイカラな雰囲気がうかがえる。その中で、レコード向きの新ジャンルとして「カタコト歌謡」が作られたのである。  

「子供らしさ」の商品化

話を戻そう。川畑文子の成功をうけて、昭和九年から一一年ごろの間、二世歌手が続々と登場する。ベティ稲田、リキー宮川・宮川はるみ兄妹、森山久とティーブ釜范の義兄弟(妻同士が姉妹)、灰田晴彦(のち由紀彦)・勝彦兄弟などだ。特に、チェリー・ミヤノ、リラ・ハマダとニナ・ハマダ姉妹、ヘレン隅田、二世ではないが日英ハーフのマーガレット・ユキといった年若い少女歌手が多く、しばしば童謡風の楽曲を録音していることは興味深い(コンピレーションCD『オ人形ダイナ』にまとめられている)。 こうした企画は二世歌手のロール・モデルとなった川畑が一〇代の少女であったことや、子役映画スターのシャーリー・テンプルの人気にあやかった部分も多いと思われるが、たどたどしい日本語を話す者(特に女性)が、未熟で不完全な(それゆえ「無垢」で「天然」な)「子ども」として商品化・フェティッシュ化する、という、「カタコト歌謡」のネガティヴな(とあえて言い切ってしまおう)側面が、この時点で既にあらわれている、と考えられる(例えばビビアン・スーやBoAは、日本の芸能界では年齢や能力や個性にかかわらず未成熟で無垢な「子ども」のように扱われていたといえるだろう)。 さらにいえば、レコードとして商品化された童謡自体、「子どもらしさ」のフェティッシュ化と不可分に結びついた存在であった。ここでいう「童謡」とは、大正期以降のプチ・ブルジョア的な「家庭」をターゲットとした文芸運動に起源を持ち、昭和以降、「家庭向きレコード」として商品化されることで、特定の声の質が喚起する「子供らしさ」と結びついていった音楽ジャンルである(周東美材「「令嬢」は歌う」『思想』二〇〇八年五月)。 文学研究者の坪井秀人は、戦前の「童謡」歌唱において顕著に見られる少女の甲高く扁平な発声が、知識人によって理想化された透明で無垢な「少女」イメージの強制と結びついていると指摘し、「レコードの歌声の中で、平べったく透明な物言わぬ彼女たちは、大人や男性への批判の視点を持たぬ、極めて安全で好都合な置物、高級なインテリアとなりおおせている」と論じている(『感覚の近代』(名古屋大学出版会、二〇〇六、三六一頁)。 翻って〈お人形ダイナ〉〈お人形の結婚式〉(いずれもチェリー・ミヤノ)といった楽曲は、彼女たち自身が、洋風で英語もタップダンスもできる舶来の、しかし当時の和洋折衷の文化住宅の応接間に置いても違和感のない「置物」であり「高級なインテリア」とみなされる文脈があったことを示唆しているだろう。もちろんその一方で彼女たちは、いわゆる「令嬢」のイメージを前面に出し、実際にそうした出自を持つ者が多かった日本人童謡歌手とは異なり、はるばる海を渡ってやってきたショービジネスの「プロ」でもあり、性急な一般化は慎むべきだが、二世少女歌手の歌う童謡ジャズの「可愛らしさ」が孕む問題は案外根深いだろう。  

ディック・ミネ──方法としての「カタコト歌唱」

一方、こうした「少女」のイメージの対極にあるのが、数々の「性豪伝説」に彩られた「ニセ二世」ディック・ミネだ。帝大出の厳格な中学校長(一種の文部官僚)を父に持ち、立教大学でバンドマンとして鳴らした三根徳一は、卒業後は逓信省に勤務していた(「おやじが無理矢理、役所に入れちゃったの。あの頃は就職難でね、〝大学は出たけれど〟だったから、その年に逓信省に入ったのは、東大出と僕の二人だけ。もちろん僕は裏口」(『昭和のバンスキングたち』六二頁))。その傍ら、各レコード会社でスチール・ギター奏者として活躍し、昭和九年末に新興レコード会社のテイチクで歌手として吹き込んだ(発売は翌年)〈ダイナ〉が大ヒットする。 つまり、彼は特権的なエリートであるブルジョア大学生の軟派文化の一貫としてジャズにどっぷり浸かった人物であり、もちろん日系アメリカ人ではない。「ニセ二世」は筆者の造語だが、芸名の付け方や歌唱法など、当時の二世歌手を強く意識していたことは疑いない。戦後のインタビュー記事になるが、「僕は名前のせいで二世だと思われるんですが、全々外国へ行ったことはありません。純粋のタクアンですよ。しかし二世のリキー・宮川だの灰田勝彦だのの方がタクアン臭いものを唄いますね」(『占領期雑誌資料大系・大衆文化編Ⅲ アメリカへの憧憬』一四八〜一四九頁 ディック・ミネ「僕のジャズ談義」『音楽之友』4巻5号、日本音楽雑誌(東京)、一九四六年五月)と述べている。 二世よりも二世らしい、この「ニセ二世」ディック・ミネこそは、現在のJ―POPのメインストリームともいえる日本語を英語風に歌う「カタコト歌唱」の発明者である。クレーンや二世歌手にとってむしろ言語能力による表現上の「制約」であったかもしれないカタコト歌唱は、ミネによって「方法」として再定義された、といえるかもしれない。 ミネは、斉藤燐による聞き書き『昭和のバンスキングたち』のなかで次のようにその秘密を開陳している。
[歌詞を]正確に日本語でやるとどうもブルースにならない。そこで思いついたのが、外人の喋る日本語。LとR、SにしてもTにしても全然違う。だから日本語の歌詞をいったんローマ字にしてね、アメリカ人だったらどう発音するか考えたわけ。(六〇頁)
この発言をうけて斎藤は、「おそらく、ディック・ミネによって創られたジャズ・ソングの日本語の発音方法は川畑文子やベティ稲田に伝えられ、五〇年後の吉田日出子の歌い方に引き継がれていったのだろう」と記している。 先述のように川畑もベティ稲田も、ミネのデビュー以前からコロムビアで多くの録音を行なっており、テイチク専属である三根徳一訳詞・編曲楽曲の録音は彼女たちが同社に移籍した昭和一〇年以降である。それゆえ「ミネの発音方法が川畑やベティに伝えられた」というのは時系列的には正しくないのだが(これは斎藤が同書で述べるように、『上海バンスキング』構想時の一九七七年にテイチクの『SP原盤による日本ジャズ/ポピュラーの歩み』に深く影響され、その収録曲を劇中で多く用いているためであろう)、少なくとも『上海バンスキング』の作者が意識していたのが、ディック・ミネから川畑文子、ベティ稲田へ(そして吉田日出子へ)という影響関係であったことは非常に興味深い。 ミネはまた、後の自伝『あばよなんて、まっぴらさ!』(東京書房、一九八六)でも、「日本語の歌詞をいったんローマ字にして英語のように歌う」方法に言及し、「いま、〈サザンオールスターズ〉の桑田佳祐をはじめとする若い歌手の、国籍不明風日本語の歌い方がヤングに好まれているけど、ナニ、あれは五十年以上も前に、ぼくがとっくにやっているんだよ」(五二頁)と胸を張っている。 しかしこの方法は、実はサザンではなくキャロルが用いているのだ。ジョニー大倉『キャロル夜明け前』には「矢沢節、誕生秘話」として、レコード・デビューに際して、もともと適当な英語で歌われていた矢沢永吉のオリジナル曲〈ルイジアンナ〉にジョニー大倉が日本語歌詞をつけ、日本語で歌ったことのない永ちゃんのためにローマ字や英語で発音の仕方を書いて渡した、というエピソードが記されている(一七八〜一八〇頁)。 もちろんジョニーや永ちゃんや桑田がディック・ミネを意識していたとは考えにくく(ただし桑田に関しては、弘田三枝子や飯田久彦や前川清など、少なくとも戦後日本のカタコト歌唱の系譜は意識していたともいえる)、彼らの直接の「ルーツ」がミネであった、などと言いたいわけではない。むしろ「本場」たるアメリカ音楽と英語への眼差しのありかたにおいて、ある種の相同的な関係が見いだせる、というべきだろう。内田裕也とはっぴいえんどの間の「日本語ロック論争」をなし崩し的に終焉させたキャロルやサザンについては、もちろん本連載でも何回か後に主題的に扱うことになるが、ここではひとまずミネに戻ろう。  

歌詞はデタラメでも大丈夫

ディック・ミネがなぜこうした方法を思いついたのかは定かではないが、そのための補助線になりそうなエピソードがいくつかある。まずは、まだ学生時代に「シャムの貴公子バロン・ディック・マーラー」を詐称してバンド仲間と温泉旅行に行った話を紹介しよう(なお、俳優の「ディック・パウエル」と「魔羅」を合わせたこの偽名が、芸名「ディック・ミネ」の語源になったという)。
主人夫婦が改めて挨拶に来てね。ぼくは笑なぞ浮かべて鷹揚に、 「チーサンニマスナリワセシクヨロ」 これを友だちの一人が通訳するわけだ。吹き出したいのを必死にこらえた顔で。 「二、三日お世話になります、よろしく、と閣下はおっしゃってます」 いまでもミュージシャンは、言葉を逆さにした符丁で喋るけど、これはぼくらが遊びでやりはじめたのが最初でね。これがいまだにえんえん続いているわけだ。たとえば 「バンコンネカリアロウジョイコカイ チャンカーショナイバッハナーネカギ」 なんて仲間同士で喋っていると、まるで国籍不明語だからさ。〈どこの人間だろう?〉って顔でみんな見るわけだ。それで得意になっているんだから、世話ァないけどね。 さっきのは、 「今晩金借りて女郎買いに行こう。カァちゃんには内緒だよ、幅がきかねーな」 って意味だけどね。 (『あばよなんて、まっぴらさ!』一四一〜一四二頁)
バンドマンからテレビ業界人に流れてゆく逆さ言葉は、戦後占領の産物だろうと勝手に思い込んでいたのだが、ミネの証言が正しければ、戦前ジャズの射程は予想以上に広い。次の例を見よう。   英語の歌詞なんて、どうせわかりゃしないからね。こっちは毎晩、同じ曲やってんだから飽きるよね。そこで即興で替え歌にしてやっちゃうの。もっともらしく舌を丸めた発音で、適当に、
「グッド ケツ パイパイ」 「ヌレテ ヨク シマル」 「イクイク アハン」 ハワイアンなんかは、こういうデタラメ入れてもわかんないの。だいたいがカタカナ英語なんだから、意味なんてない詞が多いから、大丈夫。 (『八方破れ言いたい放題』一九九頁)
話題が必ず下半身方面に収束するのは、晩年の彼が世間で持たれていたステレオタイプによるものか、これがまさに戦前ジャズメン気質というものなのか、おそらくはその両方だろうが、ともあれ、これらのエピソードに即して考えると、彼の発明した「カタコト唱法」も、お坊ちゃん大学生の仲間内の隠語や替え歌のような悪ふざけ、遊びの一種だった、といえるのではないか。たとえば、彼のカタコト・ジャズ・ソングには「美人」の意味で「シャン」という「モダン語」が頻出するが、これは英語ではなくドイツ語のschönが語源であり、「仕事」を「アルバイト」、「お金」を「ゲル」、「女の子」を「メッチェン」という類の、旧制高校のドイツ語教育に由来する隠語である。 つまり、彼の「カタコト唱法」は、「アメリカ人になりたい」という類の、文化的な優位者への皮相な憧憬というよりはむしろ、ブルジョア遊び人の余裕に裏打ちされた言葉遊びの感覚と、「歌詞はデタラメでも大丈夫」というバンドマン気質が合わさったところで生れたのではないか。そうであればこそ、傑作オペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』で好色な「バカ殿」を演じ、「和製ジャズ・ソング」である〈青い空僕の空〉の「丘を越えてはるばる 口笛も高らか」という歌詞を「ぼーくはわかーいとーのさーまー、けらいどーもーよろこーべー」とお気楽に替え歌にするような離れ業を演じられたように思える。  

〈ダイナ〉から古賀メロディーへ

自覚的な「方法」としての「カタコト歌謡」の端緒ともいえるディック・ミネ〈ダイナ〉についてもう一つ興味深いのは、これが新興レコード会社のテイチクから発売されており、また同社は作曲家の古賀政男が取り仕切る、事実上「古賀商店」だったことである。もともと奈良で蚊帳を作っていた問屋の副業として昭和六年に設立されたテイチク(帝国蓄音機)は、昭和九年に東京進出を試みる際に古賀政男を重役待遇で迎え入れ、古賀が昭和一三年にコロムビアに復帰するまでの間に、同社は外資系メジャー及び大日本雄弁会講談社系列のキングに匹敵する全国区の大手レコード会社に急成長している(古賀は、昭和六年にコロムビア専属として〈酒は涙か溜息か〉〈影を慕いて〉〈丘を越えて〉でブレイクしているが、コロムビア専属となる際にも、「文芸部員」つまり社員ディレクターとしての待遇を要求しており、古賀のビジネスマインドと、専属制度における社員ディレクターの権限の強さをふたつながら物語っている)。 ミネは、渋る文芸部長に対して、古賀の鶴の一声で〈ダイナ〉の録音が決まった、としばしば古賀への恩義を強調している(ただし、その文芸部長であったはずの川崎清の前掲書では「たまたまこの[〈ダイナ〉の]演奏を聞いた文芸部員一同が「これはいけるじゃないか」と期せずして意見一致、そこで早速吹き込みをした」(一四二頁)とされている。また、昨年末に発売された『ディック・ミネ エンパイア・オブ・ジャズ』(傑作!)では、〈ダイナ〉以前の録音も収められており、この「古賀の鶴の一声で〈ダイナ〉誕生」というエピソードの真偽は定かではない)。 テイチク最初の大ヒットとなった〈ダイナ〉の後、ミネは外国曲のみならず〈二人は若い〉や〈人生の並木路〉といった「古賀メロディー」をも、もちろんお得意のカタコト歌唱で多く録音している。レコードが売れて金になればジャズじゃなくても結構、というミネの鷹揚さと遊び人気質と、主力商品のほとんどを古賀自身が手がける「個人商店」テイチクの社風が交差するところで、二世風カタコト発音による日本製流行歌、というスタイルが生まれたのである(ミネ以前に二世歌手が国産楽曲を歌う例があったかについては調べがついていないので軽々しくは言えないが)。 そして、そのスタイルは他社にも飛び火し、「ホンモノ」の二世歌手にも影響を与えてゆく。服部良一作曲による「和製ブルース」の記念すべき第一作〈霧の十字路〉(一九三七)は、二世歌手兼トランペッターの森山久が歌っている。あくまでも私見だが、ミネ以前の二世歌手が概して「カタコト性」を隠すために結果として単調な歌唱になっているのに対し、森山の場合は一種の美的な効果を狙って「カタコト歌唱」を強調しているようにさえ思える。  

  とりとめがなくなってしまった。服部良一や、古賀のテイチク退社後ミネの楽曲を多く作った大久保徳二郎、あるいは戦中に「南洋もの」を多く手がけた佐野鋤といったジャズ・プレイヤーあがりの作曲家について、またディック・ミネの立教の後輩で、「ハワイ生まれの江戸っ子」と呼ばれた灰田勝彦について、もちろん戦時中の「大陸」のジャズについて、まだまだ述べるべきことは多いが、現在の筆者の能力ではおぼつかない。 ともあれ今回は、二世歌手・川畑文子の成功をうけて、「ニセ二世歌手」であるディック・ミネによって自覚的な「方法」としての「カタコト歌唱」が発明され、「古賀商店」において商品化されたことを確認して、次回はもう一人のニセ二世、トニー谷を生みおとす戦後占領期に話を進めよう。 それでは、林檎の木の下でまた逢いましょう。

第3回 トニー谷のインチキ英語は戦後アメリカニズムのB面だった

日本のコミックソングの金字塔

レディスアンドヂェントルメン、おとっさん、おっかさん。グッドアフタヌーン、おこんにちは。グッドイヴニング、おこんばんは。ジスイズナンバーワンストレンジ怪しい連載オンジスマガジン。メイドインジャパン、チンジャラパチンコカントリーのピジンイングリッシュソング、カタコト歌謡のお時間ざんす。ざんすざんすさいざんす。
そう、今回の主役はトニー谷。細い口ヒゲにフォックス型のメガネの出で立ちで、一九五〇年代のジャズ・コンサート・ブームの司会者として登場、やがて司会者の枠を大きく逸脱する「ゲテモノ芸人」として、実演、ラジオ、映画に出演し、果てはレコードまで吹き込んでいる。「さいざんす」「馬っ鹿じゃなかろか」「家庭の事情」といった数々の流行語を生み出しているが、本稿の最大の関心は、「トニー・イングリッシュ」、つまり英語(時には中国語)を江戸前の七五調のリズムで立て板に水でまくしたてる語り口である。一部のインテリからは「植民地的」と軽蔑・嫌悪されながらも一世を風靡したこの外国かぶれのいやったらしいキャラクターは、後に赤塚不二夫『おそ松くん』の「イヤミ」のモデルとなり、また、マンガで頻出する「ざあます」言葉の有閑夫人(典型的には『ドラえもん』のスネ夫のママなど)の造形にも影響を及ぼしてゆくことになる。 インチキ英語を駆使して彼が人気絶頂期の一九五三〜四年ごろに残した幾つかの録音は、本人にとっては単なる余技にすぎなかったのかもしれないが、結果的に「カタコト歌謡」の戦後における端緒となり、のみならず日本のコミックソングの金字塔となった(というよりも、トニー谷が死去した一九八七年に大瀧詠一がNHK―FMで放送した追悼コミックソング特番によって「刷り込み」を受けた筆者にとっては、「日本のコミックソング」とはトニー谷とクレージーキャッツにほかならない)。 日本もアメリカも小馬鹿にし倒す悪意に満ちた「トニー・イングリッシュ」や、「二世」風のいでたちは、ポスト占領期の日本における「アメリカ」への両義的な感情をある仕方で代表するものといえ、同時期に米軍キャンプという同じ文脈から登場しながらアメリカへの憧憬を比較的ストレートに表現する江利チエミや雪村いづみらとは好対照をなす。芸能の「戦後アメリカニズム」の「A面」であるチエミやいづみに対して、「B面」を担ったのがトニーであったといえるかもしれない。 「戦後アメリカニズム」が彼らから始まった、という評言はいささか奇異に思われるかもしれない。明朗快活な〈リンゴの唄〉や笠置シヅ子の〈東京ブギ〉、あるいは笠置の物真似でデビューし、笠置に先駆けてアメリカ公演を行った(そのことで笠置の逆鱗に触れ、ブギの歌唱を禁じられた)初期の美空ひばりこそが「戦後」を代表するのではないか、と。 しかし私見では、敗戦直後の日本で流行した国産楽曲は、その担い手も曲調も、戦前・戦中をそのまま引き継ぐものであり、新たな時代の開始というよりも、おおむね日米開戦ごろから断絶していたものの復活と考えるべきである。〈リンゴの唄〉が主題歌となった映画『そよかぜ』は、敗戦前に制作されているし、しばしば敗戦後のアメリカニズムの象徴のように考えられている服部良一・笠置シヅ子による一連のブギも、受容の文脈はともかく、少なくとも曲調においては戦前の〈ラッパと娘〉などの傑作ジャズ・ナンバー群の系譜にあり、日米開戦以前に目覚ましい成熟を見せていたジャズ文化が復活したものにすぎないともいえる。 それに対して、占領終結後、米軍キャンプに出自を持つ音楽家や芸能プロダクションが台頭し、やがて、民放ラジオやテレビといった新メディアと結びついて、日本の大衆文化環境を根本的に変化させてゆくことになる。こうした過程を、芸能における「戦後アメリカニズム」と仮に呼んでおきたい(もちろん敗戦直後の大衆音楽状況が単なる戦前の回帰にすぎない、ということではないが、この問題については別稿を期したい)。  

トニー・イングリッシュ「開花」の瞬間

トニー谷こと大谷正太郎(しばしば谷正を自称)の経歴は一九四六年、二九歳にしてアーニー・パイル劇場(GHQに接収された東京宝塚劇場)に事務員として就職したことから始まる。それまでの経歴は謎に包まれている。戦時中は上海で従軍していたとも民間人として放浪していたともされる。村松友視は伝記『トニー谷、ざんす』(毎日新聞社、一九九七)において、彼自身の複雑な「家庭の事情」を強調しているが、確証はない。つまりトニー谷の経歴には「戦後」しか存在しないのだ。 アーニー・パイル劇場での演出助手を経て、アメリカ赤十字クラブに移籍。そこでのあだ名「トニー」がのちの芸名となる。つまりは「谷」の英語読みと日本語読み。同義の英語と日本語を並べるトニー・イングリッシュの基本法則が芸名にも貫徹されていることになる。ちなみに江利チエミはキャンプ回り時代のあだ名、「エリー」に本名のチエミをくっつけたもの。こちらはファーストネームの日米併記ということになる。 赤十字クラブでキャンプ慰問芸能人の手配・斡旋を行っていたトニーだが、副業に精を出してクラブを留守にした際に小火を起こす不始末であえなくクビ。赤十字時代のコネを活かして食いつなぐうち、司会者として舞台に立つようになる。 転機となったのは一九四九年一〇月のプロ野球チーム、サンフランシスコ・シールズの来日だった。英語に堪能な弁士出身の漫談家・松井翠声の代役として急遽歓迎会の司会に立ったのがトニー谷。村松友視は「トニー・イングリッシュ」の「開花」の瞬間をドラマティックに記している。
「レディス・エンド・ジェントルメン、グッド・イブニング」 とスポーツ・センターの中央に立って喋り始めたら、 「何いってんだか分らねえぞ」 と野次がきた。これに対して反射的に、 「何言ってやがんだい」 と怒鳴り返したら、ワッと笑い声が起った。これは、トニー谷にとって天の啓示のようなものだった。これはいける……そのときトニー谷は瞬間的にそう感じた。いや、感じたばかりでなく、即座にそこで芸風を確立してしまったのだった。 「レディース・アンド・ジェントルメン」 と声を大きくして言い、さらに、 「アンド・ミーチャン・ハーチャン」と付け加えた。するとこれまたドッと受けた。そこから流れるように吐き出されたのが、トニー・イングリッシュの開花だった。 (『トニー谷、ざんす』六六―六八頁)
この記述自体は作家・村松の想像力の賜物と思われる(別の可能性についてはあとで検討する)が、シールズ歓迎会をきっかけにトニーが注目を集め始めたことは間違いない。広告も検索できる読売新聞データベースで調べると、一九五〇年以降、日劇の司会者として頻繁に広告に名前が載るようになっている。 ところでシールズの来日はトニーにとってのみならず、戦後日本の大衆文化にとってもひとつの転機だった。『占領期雑誌資料大系 大衆文化編Ⅲ アメリカへの憧憬』(岩波書店、二〇〇九)ではこのイヴェントに一章を割いて詳細に当時の記事を紹介している。谷川建司による解説は、球場でコカ・コーラとペプシ・コーラの日本人向け発売が試験的に行われ、パンフレットにもコカ・コーラの広告が大々的に掲載されたことを強調し、「占領期における日米野球の復活という檜舞台が、同時にアメリカ流食文化のお披露目の舞台でもあったことは象徴的な事実だ」と述べ(一八一頁)、「日本人にとってシールズ来日が持っていた最も大きな意味とは何か」と問い、「戦後の日本がアメリカという国の強大な力の庇護の下で、アメリカナイズされた形でしか存在し得ないことが改めて示された機会でもあったろう」と結論する(一八一―一八二頁)。   もうひとつ、トニー谷売り出し中の仕事としてもう一つ特筆すべきは、ケニー・ダンカン来日公演の司会だ。「拳銃の曲打ちと投げ縄が得意なハリウッドの西部劇スター」という触れ込みで来日した彼は、アメリカでは全く無名のエキストラ俳優で、曲打ちやロデオはおろか、単なる乗馬さえもまったくできなかったという。 とんだ食わせ物ケニー・ダンカンはしかし、トニー谷や笠置シヅ子といった共演者、そして空砲にあわせて的に穴を開け風船を割る「標的持ち」の妙技によって、化けの皮を剥がされずに「スター」のままで帰国した。広島公演では駅長が白手袋で出迎え、市長以下お歴々が立ち並ぶ中をオープンカーでパレードしながら会場入りしたという。その堂々たる(?)スター姿は、笠置シヅ子主演映画『女次郎長ワクワク道中』に収められており、筆者は未見だが後にこの顛末自体『はったり二挺拳銃』として映画化されている。 この「ニセ・ハリウッドスター」が鳴り物入りで来日する裏では、軍属の二世プロモーターや伝説の興行師・永田貞雄が暗躍しているのだが、いずれにせよこれが戦後における来日タレントの「呼び屋」ビジネスの事実上の(米軍慰問の一環ではなく、日本の聴衆向けという意味での)端緒となったことは厳然たる事実である(猪野健治『興行界の顔役』ちくま文庫)。戦後の「外タレ」は「ドシロウトのアメリカ白人」から始まっているのだ。単なる「ホンモノのアメリカ人」でしかないケニー・ダンカンと、したたかな「ニセ二世」芸人トニー谷の邂逅。戦後日本において「外タレ」(来日タレントのみならず「ガイジン」であることを唯一最大のセールスポイントとする日本の芸能人も含め)とは何だったのかを考えさせる出来事ではある。  

ジャズ・コン・ブームで大ブレイク

シールズ来日、ケニー・ダンカン騒動という、よくも悪くも戦後のアメリカ化の象徴的なイヴェントに立ち会っていたトニー谷だが、大ブレイクを果たすのは占領終結後のジャズ・コン(サート)・ブームにおいてである。それまで米軍キャンプの中だけで演奏されていたジャズ(アメリカ的軽音楽全般、という意味での)が、占領終結と朝鮮戦争休戦によるキャンプの縮小にともなって、続々と「フェンスの外」に流れでてくるのだ。映画『ベニイ・グッドマン物語』でのドラム・ソロが日本の観衆に強い印象を残していたジーン・クルーパや、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニーが来日公演を行うのもこの頃だ。江利チエミや雪村いづみを筆頭に、ジョージ川口とビッグフォー、渡辺晋とシックス・ジョーズ、与田輝雄とシックス・レモンズといった本格的コンボから、フランキー堺とシティ・スリッカーズ(植木等と谷啓もメンバー)、ペギー葉山、ナンシー梅木などが多く登場し、彼らは実演、レコード、映画に加え、民放ラジオ(一九五一年放送開始)やテレビ(一九五三年放映開始)といった新メディアでも積極的に活躍しはじめる。これらの新メディアが、その草創期には、すでに地位を確立したレコード歌手や映画スターにはまったく魅力のないものであったこともキャンプ出身者に幸いした。これらの人々にトニー谷同様、「カタカナ名前+漢字苗字」の芸名が多いのはもちろん、キャンプでの通り名をそのまま用いたためだ。 ホールや大学講堂でのジャズ・コンにおいてトニーは、そろばんをリズム楽器として鳴らし、出番に関係なく勝手に出てきて歌い、踊り、さらには歌手やミュージシャンに悪態をつく、といった司会にあるまじきアクの強いパフォーマンスを行っていた。小林信彦は「そんなことがなぜ許されたかというと、トニー谷の人気が六・四か五・五ぐらいで大きくなっていたからである」(『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』解説)とし、「司会者を見るために、客が集ったというのは、空前といえるのではないか」(『日本の喜劇人』八七頁)と指摘する。なお、人気絶頂期の彼の司会ぶりは映画『アジャパー天国』(一九五三)で見ることができる。  

身体化されたみごとな七五調のリズム

さあ、ようやく「トニー・イングリッシュ」で歌われる彼の傑作コミック・ソング群の検討に入ろう。 初録音の〈レディス&ヂェントルメン&おとっさん、おっかさん〉(一九五三)は前年にヒットしたバラード‘You Belong to Me’のカヴァー。二番冒頭の歌詞、See the market placeを江戸弁で「しーざまーくーらで」と空耳アワー的に替え歌するセンスが冴える。ロマンティックな歌(案外真面目に歌っているのがまた可笑しい)の前にはもちろんたっぷりとトニー・イングリッシュの口上が入り、間奏では「イーハン、リャーハン、チャーハン」といった麻雀式中国語や「二一天作、二進が一進、三五のひだちが悪かった」といったそろばん用語のもじり(銀座の「歌舞伎座のそば」で生まれたトニーは下町では有名なそろばん塾に通っており、同じ塾に後年小林信彦も通ったという)が用いられ、「トニー・イングリッシュ」が単なる米日カタコトのチャンポン以上に多様な出自をもつ混淆的な話芸であることをうかがわせる。 カップリングの〈さいざんす・マンボ〉は宮城まり子との共演。「家庭の事情」がモチーフとなっている。多忠修(雅楽の家系から戦前にジャズに転じた人物)による本格的なマンボ編曲が施されており、ジャズ・コン・ブームとマンボ・ブームの同時性に改めて気付かされる。なんといっても聞きどころはソロバンによる見事なソロ。グルーヴィ! そして最高傑作の〈チャンバラ・マンボ〉。無粋ながら簡単に絵解きをしながら見てゆこう。 まずは〈マンボNo. 5〉そのままのイントロから、当時誰でも知っていた月形半平太の名台詞がトニー・イングリッシュで炸裂する。
マウント・イースト・東山、サーティーシックス・三十六峰、クワイエット・スリーピング・タイム、ここ三條ブリッジ・イン・ザ・京都シティ、幕末勤王佐幕・タイム。 突然サドンリー・ハップン起るはチャンバラサウンド。 (S.E.)「御用、御用」 来たなオッサン チョイキタホイ! 寄らば斬るワョ、サアーイラッシャイ!
無声映画伴奏の和洋合奏風旋律が入り、それが〈マンボ・ジャンボ〉を半分に端折ったテーマにスムーズに移行する。多忠修の面目躍如。「チャンバラ・マンボ」を「ケンゲキ・マンボ」、「フェンシング・マンボ」と言い換えてゆくセンスも素晴らしい。さらに「チャンバラ屋」から連想でカントリー&ウエスタンの「ジャンバラヤ」の一節が挿入される。ちなみにカントリー&ウエスタンは、戦前日本の都市モダン文化であったジャズのレパートリーにはほとんど入っておらず、田舎出身の若い占領軍兵士がもちこんだ、まさしく戦後的な「アメリカの音」だった。さて、ここでようやく主役・月形半ペン太と雛菊の登場と相成る。
ミスター・ムーン、月形様。アイ・ドン・ライクのトラブル事。 早くハバハバゴー・バック・ホーム カモナ・マイ・ハウス
「ハバハバ」は語源不詳の占領軍スラングで「早く」の意味。〈カモナ・マイ・ハウス〉はローズマリー・クルーニーが歌った当時のヒット曲だが、日本では〈テネシー・ワルツ〉と並ぶ江利チエミの代表曲。そして決め台詞「月様、雨が」の後に挿入されるは〈雨に唄えば〉! しごく真面目に二枚目然と歌われる一節をはさんで「ヂイス・イズ・スプリング・レイン 春雨。アイ・ドン・ケアー 濡れて行こう」でバチリンコンと決める。大仰に見得を切る姿が目に浮かぶ。   〈チャンバラ・マンボ〉の名調子が示すように、トニー・イングリッシュは一面ではみごとにこなれた七五調のリズムに基づいている。語彙の選択こそ相当にトリッキーであっても、銀座生まれに相応しい、由緒正しい江戸前の話芸といえる。本連載でここまで扱ってきた(そして基本的にこれからも扱うことになる)、英語風に日本語を発音する、という方向とは正反対に、トニー・イングリッシュは日本語の統語法と語調の中に英語の語彙を割り込ませる形で成立しているといえるかもしれない。実は、今回この原稿をトニー・イングリッシュで書くことを試みたのだが、七五調が決まらないとどうにもそれらしくならない。ルー大柴の「ルー語」をさらに間延びさせたようなシロモノにしかならず、身体化された韻律の差を痛感した次第。 そう考えると、特に〈チャンバラ・マンボ〉に顕著な、ヴァラエティ・ショーをそのまま切り取ってきたような録音は、戦前のあきれたぼういず(トニーのソロバン演奏は元は坊屋三郎の持ちネタで、パクられた坊屋は憤慨していたという)や、さらに遡って「話芸」としての映画説明レコードやバスガイドの名所説明レコードからその連続性を見出しうる、つまり舶来のポピュラー・ソングの意匠を巧みに用いた「語り物」の一種とみることができるだろう(やや余談になるが、先頃『ニッポンジャズ水滸伝』と題した四枚組CDが発売された。主に関西の非外資系レーベルに残された戦前のジャズ録音を集めたもので、それだけでも堪らない企画だが、特に興味深いことに演歌師や活動弁士出身者によるジャズ録音が多数収められている。お馴染みの〈青空〉や〈アラビアの唄〉のなかにも当然のように朗々たる語りが入り込んでおり、舶来要素の「語り物化」とでもいうべき過程を考える上できわめて示唆に富んでいる)。  

鏡としてのニセ二世

では彼の言語的実践はどのように機能したのか。池内紀は「一つの言語的事件」と呼び、次のように述べる。
トニー谷とともに異様なものが登場した。それはキザを絵にかいたような衣装や、楽器としてのソロバンといった突飛な着想にとどまらない。トニー・イングリッシュをまじえた奇妙な日本語は、思想・信条から食べ物や風俗まで、あわただしくころもがえしてアメリカかぶれした人と世相を辛辣に戯画化していた。彼のセリフが、一度聞いたら忘れられない強烈さをもち、しばしば流行語になったのは、時代に対する鋭い批判を含んでいたからにちがいない。 (『地球の上に朝がくる』河出書房新社、一九八七、五二〜三頁)
ことばの奇妙な働き、その本来のいかがわしさ。トニー谷は、それを肉声でもって示してくれた。「ざんす」や「ざあます」言葉が、トニー以降、急速にすたれたのをご存知だろう。トニー谷は一人の風変わりな芸人というよりも、一つの言語的事件であった(同五四頁)。 「言語的事件」としてのトニー谷のブームは、いうまでもなく占領終結前後という時代に深く規定されていた。再び小林信彦御大を引こう。
進駐軍の占領時代に、なにがイヤがられたといって、アメリカの威光を背負った二世通訳ぐらい、イヤなものはなかった。そのくせ、日本の若者はサングラスをかけ、アロハシャツを着、ラバーソールをはいて、キザな二世の真似をした。こうした日本人の矛盾と屈折をテコにして、トニー谷は登場した。(CD『ディス・イズ・ミスター・トニー谷』解説)
また、フィクションではあるが、斎藤憐『アーニー・パイル劇場』(ブロンズ新社、一九九八)にも同様の「矛盾と屈折」の感情を描いた一節がある。
「支配人、なんて言いましたっけねえ、あの通訳」 「さあて、なんて名前だったかなあ」 「あっしは、ああいう奴の面見ると、虫酸が走るんですよ。日本人のくせに、アメリカの腰巾着になり下がりやがって……」 「まあ、そう怒るな、あの人は国籍がアメリカなんだから」 (略) 「…国籍がアメリカだろうと元は日本人だろうが、日本人のくせして、チューインガムをくちゃくちゃやりやがって…(略)肉をたんまり食ってるアメリカに敗けたなあ、しょうがない…しかし、あの黄色い顔の男が、俺らの前ででかい面しやがるのが気に食わない…」(一六頁)
特に最後の台詞からは、「アメリカ」(おそらく白人)を優位に、「黄色い顔」を劣位に置く人種主義的偏見が内面化されていることがわかる。その上で「人種(民族)」的には「日本人」でありながら、(「日本人」にとっては不当にも)占領者の側にある「二世」に対する、理不尽かつ身勝手な嫌悪感と羨望が表明されているのである。 翻って、グロテスクなまでにいかがわしい「ニセ二世」を演じるトニー谷は、当時の日本人が抱いていた「二世」への、ひいては「二世」に投影された「アメリカ」への両義的な感情を戯画的に可視化し、逆撫でする存在であった。そしてそれは不可避的に占領者の姿をも歪んだ鏡に映しだすことになるだろう。 村松友視は次のように述べる。
トニー・イングリッシュは、たしかに日本人観客の野次を舞台上から言い返したところからスタートした。したがって、トニー・イングリッシュは日本人を揶揄しているように思えるのだが、その半面には占領軍たるアメリカの言葉をもてあそんでいるという要素があった。いや、むしろそこのところに、実はトニー谷という存在の真髄があったのではないだろうか。それは、トニー谷自身の自覚を越えて、あの時代全体を揶揄しているという構造を、トニー・イングリッシュがもっていたからなのだ。そして、トニー谷の躯の奥底にそのような毒がひそかに息づいていたという気がするのだ。 それは、もしかしたら暗い過去をもつ者が、明るい世界へ向ける怨念の矢であったのかもしれない。明るい世界には、戦勝国アメリカも入っていたが、そのアメリカに馴染んでゆく戦後日本のありさまも入っていたし、戦争をはさみながら悠々と暮す[ざんす言葉のヒントとなった]芦屋夫人も入っていた。(『トニー谷、ざんす』、七三頁)
アメリカ/日本、戦後/戦前という対比重ね合わされる明るさ/暗さの感覚とその交錯への視線は、トニー谷に固有のものというより、むしろ書き手としての村松友視の核心に関わるものかもしれない。力道山(『力道山がいた』)にせよ、水原弘(『黒い花びら』)にせよ、村松が伝記を手がける人物はことごとく、ある「暗さ」を背負っている。もちろんそれは、彼を世に出したプロレス論における、「善玉」「悪玉」を超えた「凄玉」に通じるものだろう。そういえばカタカナ名前+漢字苗字は「昭和プロレス」の定番の命名法でもあった。  

新たな芸能界形成の中で

ところで村松は「トニー・イングリッシュは、たしかに日本人観客の野次を舞台上から言い返したところからスタートした」としているが、池内はトニー・イングリッシュの成立について別の可能性を示唆している。池内が紹介するところでは、一九六九年頃のラジオ録音でトニーはシールズ来日歓迎会について次のように話している。
「レディース・アンド・ジェントルメン!」 とやりました。自分だけは発音が正確だろうと思っていました。うしろの舶来が聞いてて全然わからない顔をしてる。しょうがないから、 「アンド・おとっつァん・おっかさん!」 それからトニー・イングリッシュがはじまったんざんす― (『地球の上に朝がくる』、四一〜四二頁)
もし「舶来が聞いてて全然わからない顔をしてる」ために、さらに日本語でたたみかけて煙に巻いた、というのが事実であるならば、むしろ村松の「占領軍たるアメリカの言葉をもてあそんでいる」という洞察を裏付けるものといえる。これはまったくの推測だが、トニーは実際は英語がほとんどできなかったのではないだろうか。謎に包まれた彼の経歴の中に、戦時中に大陸で英語、中国語を身につけた、という話が含まれているが、もともと英語ができた人間が、トニー・イングリッシュのような批評性(または悪意)を持つことはむしろ困難であるように思える。村松のように想像の翼を広げることが許されるならば、戦後ベストセラーとなった簡易教本『日米会話手帳』程度の知識と強心臓のみを頼って占領軍に入り込み、甘い汁を吸いながらボスを嘲笑する狡猾でしたたかな日本人、と見立てるほうがトニーのキャラクターを理解しやすいように思える。 占領者を揶揄する、というきわめて危険なパフォーマンスは、菅見の限り占領期日本には見いだせない。激しい政府批判で鳴らしたラジオ番組『日曜娯楽版』においても占領軍批判だけはご法度だった。というよりも、最高権力者たる占領軍の存在を意識させない限りにおいて、政府権力への「健全で民主主義的な」批判が奨励されていたといえる。 翻って、占領末期から直後のジャズ・コン・ブームは、音楽的な魅力というよりも、占領期には手が届かなかった「フェンスの向こうのアメリカ」への憧憬に動機づけられる部分が大きかっただろう。司会者としてそのブームの一端を担ったトニー谷は、憧憬の裏側、つまり抑圧されていた「二世」や「アメリカ」への嫉妬や反発といった感情を露悪的に戯画化し、それを解放することで人気を獲得したといえるのではないか。 もしそうした見立てが可能であるならば、トニー谷の存在は、彼に対する批判の紋切型であった「植民地的」というよりむしろ、「ポスト植民地的」(ちょっと面映い……)というべきなのではないか。被占領者による占領者(ただし「人種」的には被占領者と同じ、と想定される「二世」という両義的な存在)の模倣が、それを見る被占領者と占領者の双方にもたらす「居心地の悪さ」の効果について、ホミ・バーバの「植民地的擬態 colonial mimicry」の概念を用いて分析することは可能であり必要だろう(筆者には到底ベリベリノーキャンドゥーざんすが……)。 そのように考えると、彼の人気の凋落も説明がつくかもしれない。一般に彼の人気衰退の理由とされる一九五五年に起こった子息の誘拐事件の以前から、その人気にはすでに陰りが見えていたという。「アメリカ」と「日本」の屈折した関係を暴露し揶揄する彼の芸風は、占領軍という「日本の中のアメリカ」が「日本」に還流してゆく、その流れがどこに向かうのかまだわからない最初の段階でのみ、一種の異化効果を伴って熱狂的に受け入れられたと考えたほうがよいのではないか(もちろん、彼の性格的な問題によって「干された」という側面は多々あるのだろうが)。 トニー谷のブレイクにおいて決定的な役割を果たしたジャズ・コン・ブームもまた、早々と沈静化する。ある者は既存の映画やレコードの世界に居場所を見つけ、また少数の者は芸術志向のモダン・ジャズへと向かっていった。そして、新たな芸能界秩序の形成に向かう動きも現れる。その中心はシックス・ジョーズの渡辺晋が設立した渡辺プロダクションであり、テレビという新メディアだった。この「魔法の箱」を通じて全国の「お茶の間」に広がった消費主義的な「豊かなアメリカ」の雰囲気は、「アメリカ」と「日本」の不均衡な関係を可視化し、両者のアイデンティティを撹乱し蹂躙し嘲笑するトニー谷の芸風とは相容れないものだっただろう。   ややしんみりしたところで次回のお題はロカビリー・ブームとテレビの音楽ヴァラエティで賑やかに参りましょう。トニー谷によって日劇出入りの電気工からコメディアンに転身させられた「ヘンな外人」E・H・エリックも登場予定ザンス。それではレディース・アンド・ジェントルメン、おさいなら!

第4回 ジェリー藤尾のやけっぱちソングは占領者アメリカへの対抗的実践だった!?

「ギャップ萌え」シングルの傑作

ハオ ハオ ハオ/バーバリスト バーバリスト ハオ ハオ ハオ ツイスト/インディアン インディアン ハオ ハオ ハオ ツイスト/ナパホ キッカポ スー シャイアン/アパッチ コマンチ ハオ ハオ ハオ/ジュゲムジュゲム ゴコオノスリキレ/オッペケレツのウパッパ/ヤーレンソーラン ソラキタドッコイ/オッペケレツのウパッパのパ
今回のテーマ曲、ジェリー藤尾〈インディアン・ツイスト〉(一九六二)の歌詞〝全文〟だ。 「インディアン」の部族名と雄叫び、落語由来のフレーズ、民謡の囃子言葉をごちゃまぜにした歌詞は限りなくオノマトペに近く、意図的に無意味に聴こえることを狙っているとしか思えない。当時の彼の「危険」なイメージと考え合わせると、ここまで本連載で扱ってきた、戦前日本のモダニズムを背景にした「英語風日本語発音」や占領期のトニー谷のピジン言語パフォーマンスに比して、格段にアナーキーでやけっぱち、あえて問題のある言い方をすれば「野蛮」な性格を有している。決して有名な曲ではないが、いくつかのコンピレーションCDに収められており、また歌唱シーンを含んだ映画『若い季節』もDVD化されているため、入手困難というわけではない。 ジェリー藤尾はロカビリー・ブームにのって登場し、当時「ケンカ最強」と謳われた日英ハーフの歌手。テレビ・映画でも活躍し、黒澤明監督が『用心棒』でそれまでの時代劇映画の約束事を破壊した、腕が飛び血しぶきが上がる殺陣シーンで「斬られ役」を演じてもいる(ちなみに彼自身、歌手になる前は新宿の愚連隊の用心棒だった)。『地平線がギラギラッ』や『偽大学生』といった主演作でも鬼気迫る魅力を振りまいているが、どちらも見る機会が極めて限られているのが残念だ。 この曲は、ジェリー藤尾の代表曲にして日本のスタンダード〈遠くへ行きたい〉のB面に収められており、作詞・作曲はA面と同様、永六輔・中村八大による。〈遠くへ行きたい〉は、この「六・八コンビ」の〈上を向いて歩こう〉〈こんにちは赤ちゃん〉と同様、NHKテレビの音楽ヴァラエティ番組『夢であいましょう』の「今月の歌」として作られた。当時テレビで〈遠くへ行きたい〉を気に入ってレコードを買った善良なリスナーがこの曲を耳にしたときの驚きは想像するに難くない。かまやつひろし〈我が良き友よ/ゴロワーズを吸ったことがあるかい〉と並ぶ、AB面の「ギャップ萌え」シングルの傑作といえよう。 今回は、ジェリー藤尾とこの曲を、単なる「名曲の迷B面」としてだけでなく、一九五〇年代末のロカビリー・ブームを端緒とする日本の大衆音楽文化の大規模な変容と、そこで突出する「アメリカ」の表象の編制を、別な仕方で(いわば「B面」において)象徴する存在として位置づけ、「インディアン」という「他者」の記号作用について、若干の検討を行ないたい。  

ジャズの一部だった日本のウエスタン〜ロカビリー

まずは基本的な事柄を確認しておこう。英語で言う「ロカビリー」はリズム&ブルースから派生した「ロックンロール」とカントリー&ウエスタン音楽の別称「ヒルビリー」を結合したジャンル呼称だが、日本の「ロカビリー」は、ロックンロール全般及びそれ以降のいわゆるブリル・ビルディング・サウンドまで含む広範なものだった。エルヴィスやジーン・ヴィンセントのみならずポール・アンカやニール・セダカも、あるいは彼らこそがロカビリーの代表とみなされた。 この広義のロカビリーは、当時「ウエスタン」と呼ばれたカントリー&ウエスタン音楽の延長線上で理解された。これは、ブームの中心が一九五八年二月に第一回が開催された「日劇ウエスタン・カーニバル」であることからもわかる(「ウエスタン・カーニバル」自体は、ロカビリー人気以前から有楽町ビデオホールで行われていた)。ウエスタンの弦楽器編成にドラムとサックスを加えれば、それでロカビリー・バンドに変身完了した。つまり「ロカビリー」の構成要素のうち、「ヒルビリー」の部分が圧倒的に優勢であり、ロックンロール〜リズム&ブルースというアフリカ系アメリカ音楽の線は見えにくかったということだ。このことは、前回も記したように、「ウエスタン」が占領期に田舎出身の若い白人兵士によってもたらされたことと関係しているだろう。付言すれば、この「田舎白人の音楽」に熱狂した日本人の多くは都市のブルジョア子弟だった。 そして、ウエスタン〜ロカビリーも、西洋由来の軽音楽としての広義のジャズの一部だった。ウェスタン〜ロカビリーのコンボが演奏していたのはジャズ喫茶であり、一九五〇年代前半のジャズ・コンサート・ブームでの「ドラム合戦」を下敷きにした一九五七年の映画『嵐を呼ぶ男』の冒頭では、平尾正章がロカビリー・スタイルで「俺は銀座のジャズ小僧」とシャウトしている。この曲の作詞は当時売り出し中のジャズ評論家、大橋巨泉だ。さらにいえば「日劇ウエスタン・カーニバル」を仕掛けた渡辺プロダクション(ナベプロ)は、ジャズ・コンボ、シックス・ジョーズのリーダーでベーシストの渡邊晋が興した会社だ。 このジャズとロカビリーの連続性(ロカビリーのジャズへの包摂)が意味しているのは、定番のアメリカ音楽史観、つまり二〇世紀初頭以来主流をなしてきたティン・パン・アレイ/ハリウッド的な音楽スタイルをロックンロールが打倒して新たな主流の座を奪った、という歴史観を日本に直接あてはめることはできない、ということだ。とはいえジャズとロカビリーの間には、棲み分けの意識あるいはちょっとした反目や(特にジャズ側からの)軽視はあったようだ。ブームの際に、ナベプロの副社長で社長夫人の渡辺美佐は日劇ウエスタン・カーニバルの立役者として「ロカビリー・マダム」と呼ばれ有名になったが(『嵐を呼ぶ男』の北原三枝演じるヒロインは彼女をモデルにしており、一九六〇年にも彼女をモデルにした若尾文子主演映画『女は抵抗する』も制作されている)、社長でなく彼女が全面に出た背景には、ジャズ畑出身の社長の、仲間のジャズメンに対する遠慮があったという。  

「混血ブーム」の意味

次に、本連載の興味にひきつけていえば、ロカビリー・ブームは、戦後大衆文化におけるカタコト歌謡の重要な担い手である「混血」のパフォーマーを売り出すきっかけとなったことを指摘しておかねばならない。今回の主役、ジェリー藤尾は、ミッキー・カーチスと並んでロカビリー・ブームが生んだ「混血」タレントの先駆だった。ミッキー、ジェリーの成功を承けて、ドイツ人の父を持ち一四歳で来日したフランツ・フリーデルがロカビリー歌手としてデビューし、なかなか見事なカタコト歌唱を聴かせている。小田豊二によるジェリー藤尾の聞き書き『ともあれ人生は美しい―昭和を生き抜いたジェリー藤尾の真実―』(創美社、二〇〇五)でも、ジェリー伊藤、アイ・ジョージ、ポール聖名子、鰐淵晴子、ミッキー・カーチス、フランツ・フリーデルの名を挙げ、彼がブレイクした「時代の特徴」として「混血ブーム」があったことが強調されている。 ただし重要なのは、彼らは、戦後「アイノコ」として差別されたとはいえ、出自においては帝国日本の特権的なコスモポリタンであったということだ。ジェリー藤尾は、一九四〇年、上海の日本租界で日本放送協会のアナウンサーだった父とイギリス人の母との間に生まれている。その二年前に神戸で生まれ、同じく上海の租界で育ったミッキー・カーチスは両親ともに日英混血で、父方母方とも複雑ながら「ロックフェラー家の養子」まで登場する高貴な出自だったようだ(家系の要約は困難なため自伝『おれと戦争と音楽と』[亜紀書房、二〇一二]を参照されたい)。戦前のハリウッドで活躍した振付師・伊藤道郎の子息、ジェリー伊藤(東宝映画の「不良外国人」の定番!)や、石油会社の重役の父とスペイン系フィリピン人の母の間に香港で生まれ、アジアを転々として育った(と称する)アイ・ジョージも同様だ。 つまりそこでは、当時社会的には「混血」という現象が示唆する決定的な文脈であったはずの「戦後占領」の問題が、巧妙に隠蔽(少なくとも回避)されていた感がある。もちろん占領期以後に出生した「混血児」が、芸能界で活躍するには未だ年少であったことも考えられるのだが、『平凡』一九五九年一一月号に掲載された、「異色タレント座談会 混血だって日本人よ」なる記事は、この問題がきわめて微妙な緊張を孕んでいることを浮き彫りにする。 ミッキー・カーチス(「カーティス」と表記)が司会を務め、女優兼ヴァイオリニストの鰐淵晴子(父は日本人のヴァイオリニスト、母は「ハプスブルグ家の末裔」というオーストリア人、一九四五年生)、モデルの入江美樹(父が白系ロシア人、一九四四年生)に加え、占領軍のアフリカ系アメリカ人兵士を父にもち、映画『キクとイサム』に主演した高橋恵美子(一九四七年生)が参加した、「ティーン・エイジャー」の座談会だが、高橋は明らかにその場から浮いている。たとえば冒頭、ミッキーが「みんな日本語うまいね」と話題を振ったことから「英語と日本語のどっちが得意か」という話題に興じているときに、高橋は「あたいなんか日本語しか喋れないんだもの、うまいのあたりまえよ。」「あたいなんて中学に入って英語習い始めたでしょ。だから日本語より英語のほうがむずかしい」と述べる。実際は入江と鰐淵はそれぞれロシア語とドイツ語で育っており、ここで「英語」を持ち出す必然性はあまりないのだが、そのことには触れられない。「混血」と「多言語環境」と「日本語の未熟」という、それぞれ独立した事象を強引に重ねあわせる力学が働く(なんせ「日本語はペラペラ」という見出しが与えられている!)なかで、その観念連合に亀裂を入れる高橋の発言はほとんど無視される。いうまでもなく、「混血」であることと「外国語(すなわち英語)ができて、その代わりに日本語が苦手である」ということは基本的には無関係だ。しかし、「混血」ないし「外国人風」の外見の人は「完璧な日本語」を話せない、という思い込み(話すべきではない、という期待及び強制)は、これ以後の時期の「カタコト歌謡」を考えてゆく上できわめて重要なポイントになるだろう。 また、高橋が出席者中唯一、差別体験について涙を浮かべながら言及するのに対し、司会のミッキーは「でも、日本が一番いいぞ、きっとそうだよ」と、ほとんど苦し紛れのようなフォローを入れている。概して、高橋以外は基本的に、「日本通の西洋人」のステレオタイプに近似した役回りを演じ(させられ)ているようだ。性急な結論は慎まねばならないが、記事全体を通じて、ここでの「混血スタア」たちは、「占領」という問題を回避しながら、一方では憧れの対象としての「西洋」(ないしは「アメリカ」)を体現し、他方、「不完全な日本人」として「日本」への愛情と忠誠を告白することを要求されているようにみえる。  

アメリカを体現していた新メディア、テレビ

そのように審美化された「混血」イメージを急激に流布させていったのは、テレビという新メディアだった。テレビは、皇太子成婚を機に爆発的に普及しつつあるとはいえ、いまだレコード会社の専属制度と映画会社の五社(六社)協定によって、慢性的な出演者不足に悩んでいた。そこへナベプロが一括してテレビ番組を制作する(ユニット制作)という、当時としては画期的な解決策が現れる。それが『ザ・ヒット・パレード』だ。フジテレビの開局記念番組と銘打たれた同番組は、企画から出演者ブッキング、演出に至るまでナベプロがまとめて担当し、費用も負担した。ミッキー・カーチスが司会のこのヒットチャート番組は、国内ではなく海外のヒット曲によって構成され、多くはナベプロ所属の出演者が日本語の訳詞で歌った。毎週新しい外国曲を編曲し訳詞し生放送で歌う、という芸当は、旧来のレコード歌手とバンドではまず考えられないことだったが、米軍キャンプやジャズ喫茶で新曲と独自のアレンジを競っていた音楽家には不可能ではなかった。ナベプロの社長みずから、コンボ編制のシックス・ジョーズを率いて伴奏を行なった(ちなみに日本を代表するビートルズ論者にして米文学者の佐藤良明氏は、この番組専属のビッグバンド、スカイライナーズの「踊る指揮者」として人気を博したスマイリー小原のことを「アメリカ人だと思っていた」という)。ロカビリー・マダムことナベプロ副社長・渡辺美佐の実家も、坂本九、森山加代子らが所属するマナセ・プロダクションという芸能プロダクションだったが、同社の音楽ヴァラエティ番組「パント・ポップ・ショー」の司会は所属タレントのジェリー藤尾が務めた。 テレビの音楽ヴァラエティの「アメリカ志向」はもちろん、単に芸能プロと放送局の「お家の事情」だけでなく、当時のキラー・コンテンツがアメリカ製ドラマ(テレビ映画)だったこととも関わっているだろう。五〇〜六〇年代を通じて、ゴールデンタイムにはアメリカ製ドラマがずらりと並んでいる。つまり、テレビというメディア自体が「アメリカ的」なものだったということであり、その「ブラウン管の中のアメリカ」は、「占領」という直接的な支配と暴力に結びつく「フェンスの中のアメリカ」とは異なる、理想化された「豊かな消費生活」のイメージを湛えたものだった(吉見俊哉『親米と反米』岩波新書、二〇〇七)(この問題は、特に民放テレビ構想における正力松太郎CIAとの関係にまで遡りうるものだが、ここでは立ち入らない。詳細は有馬哲夫『日本テレビとCIA』[宝島社、二〇一一]、『原発・正力・CIA』[新潮新書、二〇〇八]などを参照されたい)。  

「六・八コンビ」とロカビリー・ブーム

永六輔と中村八大の「六・八コンビ」によるNHKの音楽ヴァラエティ『夢であいましょう』も、ロカビリー・ブーム以降の大衆音楽とメディア環境の構造的変化という文脈に位置づけられる。二人は一九六一年開始のこの番組で初めて組んだわけではなく、その数年前にはロカビリー・ブームが直接的に影響していた。青島出身で、ジェリーやミッキーと同様、租界育ちのコスモポリタンである中村八大は、占領期からジャズ・コン・ブーム時代の超一流ピアニストだったが、一時麻薬中毒に陥っていた。再起をかけて、渡辺晋の紹介でロカビリー・ブームに乗じて企画されたロカビリアン総出演の映画『青春を賭けろ』(東宝、一九五九)の音楽を担当することになったが、ロカビリー歌手がステージで歌っていた外国曲を映画で使用すると莫大な使用料がかかることが判明したため、劇中歌を急遽オリジナルで作らなければならなくなり、たまたま道で合った顔見知りの放送作家の永六輔を無理やり誘い、一晩で一〇曲あまりを作ったという。その中の一曲が、第一回レコード大賞を受賞する水原弘〈黒い花びら〉だ。占領期の超人気ラジオ番組『日曜娯楽版』の常連投稿者から放送業界に入った永六輔は当時、日本テレビの先駆的な音楽ヴァラエティ『光子の窓』の作家だったが、六〇年安保に際して「若い日本の会」に参加しデモに熱中し台本が遅れるようになり、プロデューサー井原高忠と衝突し日本テレビを出入り禁止になっていた。 つまりNHKで六・八コンビの番組が実現した背景には、ロカビリー・ブームに加え六〇年安保闘争があったということだ。永は、この時代を回想して、「反米闘争の一方で、アメリカに憧れるという不思議な時代だった。/僕自身、デモに参加しながら、ペリー・コモ・ショーやエド・サリヴァン・ショーを勉強していた」「反米と親米がゴチャゴチャの時代」と述べている(永六輔・大竹省二『赤坂檜町テキサスハウス』朝日新聞社、二〇〇六、六八ページ)。ちなみに、プロデューサーの井原は、後に『ゲバゲバ90分』や『11PM』を手がけ、ザ・ピーナッツやとんねるずの名付け親でもある大物だが、三井財閥の分家の出身で、学生時代にはウエスタン・バンド「ワゴン・マスターズ」を率いてシーンの中心的な存在でもあった。「田舎の白人の音楽」に熱中した都市ブルジョアの典型的な例といえる。 もうひとつ『夢であいましょう』関連で指摘しておきたいのは、日本人より日本人らしい「ヘンなガイジン」として人気を博したE・H・エリックについてである。彼は父が日本人、母がデンマーク人で、フランスで生まれ日米開戦頃に日本に来ている。電気技師として働いていた時に仕事で日劇を訪れた際、西洋人の顔をしているのに日本語が話せるのが面白い、とトニー谷にスカウトされた人物だ。「ヘンなガイジン」というフレーズは、楽屋でジェリー藤尾のことを「変な日本人」といったのに対して「お前も変な外人じゃねえか」と返したことがきっかけで生まれたという。出自からして、先に述べた「混血ブーム」の一翼を担う存在といえるが、E・H・エリックというカタカナ名前だと「日本語がペラペラのヘンなガイジン」と認識され、弟の岡田真澄が「バタ臭い日本人」と認識されているのは、「名前」がいかに人々のアイデンティティを規定するかを示す例としても興味深い。  

なぜ「インディアン」なのか?

さて、ようやく〈インディアン・ツイスト〉にとりかかろう。そもそもなぜ「インディアン」なのか。もちろんここで「作者」なるものの意図を問いたいわけではない。ロカビリー・ブームを背景に登場した危険な魅力を振りまく「混血」の歌手が、「野蛮な」インディアンを歌う、というときに何が起こっているのか、ということが問題なのだ。 既に述べたように、「ウエスタン」の延長上に成立した日本のロカビリーにおいては、パフォーマーは基本的に「西部の白人男性」を演じていたといえる。もちろん、「本物」のカウボーイや保安官が身の回りにいるはずもなく、映画やテレビで誇張された「西部劇」がその想像力の源泉だった(それゆえに、前回紹介したようなケニー・ダンカンのような「インチキ・カウボーイ」がもてはやされたのだ)。いずれにせよそこでは、合衆国において「リズム&ブルース」から「ロックンロール」の発生における重要な要因、つまり、白人中産階級のティーン・エイジャーが、黒人労働者階級の「ワイルド」な音楽や話し方や生活態度を理想化し模倣する、という価値転倒的な欲望はほとんど見られなかった。翻って、〈インディアン・ツイスト〉において、「混血」のジェリー藤尾が、西部劇における典型的な「他者」であり「敵」である「野蛮なインディアン」を演じることは、この時期までの日本のウエスタン〜ロカビリーの上演の前提をなしていた「占領者としてのアメリカ」への素朴な羨望と同一化に対する対抗的・逸脱的な実践として解釈できるのではないか。 歌詞もその見立てを補強する。まず気がつくのは、英語部分と日本語部分が、どちらも相互に翻訳を拒むような仕方で併置されていることだ。英語部分といっても、「バーバリズム」から派生したと思われる「バーバリスト」は辞書にない造語であり、ほかはインディアン、ツイスト、そして部族名を列挙し、雄叫びを上げているにすぎない。対する日本語部分も、「ジュゲム」と「オッペケレッツのウッパッパ」といった、落語で用いられるナンセンスなオノマトペ、そして民謡の囃子言葉に由来する「ヤーレンソーラン、ソラキタドッコイ」である。「ジュゲム」は説明不要として、「オッペケレッツのウッパッパ」はおそらく、「死神」で呪文として出てくる「テケレッツのパ」が変化したものだろう。「テケレッツのパ」は芙蓉軒麗花の歌謡浪曲〈浪曲炭坑節〉(一九五五)で使われており、それが念頭にあったのかもしれない。さらに、作詞者の永六輔は、六〇年安保以降、急激に日本の芸能史の探求に向かっていることに鑑みれば、川上音二郎の「オッペケペー」の影響も考えられる。そこから、皮相な欧化主義世相への風刺と批判という含意を読み取ることも可能だろう。  

ニューオリンズ、ブラジルと日本をつなぐ文化実践

さらに興味深いのは、西部劇において「野蛮な他者」として描かれたステレオタイプな「インディアン」のイメージを戦略的に用いる対抗的な文化実践が日本以外にも見出せることだ。ニューオリンズのカーニバルに登場する「マルディ・グラ・インディアン」は、地域コミュニティと結びつき、定められた役職を持つ組織(トライブ)に基づいているが、その「人種的」な出自は「インディアン」(アメリカ先住民)ではなくアフリカ系だ。その派手な衣装とダンスやチャントは、一九世紀の後半、「西部劇」イメージを規定したバッファロー・ビルによる「大西部ショー」をイメージの源泉にしているという。ほとんど意味がわからない独特の言語(R&Bの名曲〈アイコ・アイコ〉を想起されたい)を即興的に用いる言語的パフォーマンスも、「ジュゲム」や「オッペケレッツ」に通じるものがある。 そもそも「バーバリズム」の語源である「バルバロイ」とは、「バルバルとしか聞こえない理解できない言語を話す者」のことだ(わが家の一歳児もしょっちゅうバルバル言っているが)。とするならば、アフリカ系の人々が野蛮な「他者」である「インディアン」の仮装をすることと、「よくわからない言葉を話す」ことは不可分な関係にあるといえる。合衆国の大衆文化研究者ジョージ・リプシッツは、アフリカ系の人々による「インディアン」というアイデンティティの仮装やこうした「異言」の使用を、「白」と「黒」の人種的二分法を揺るがす実践として評価している。 もうひとつ、〈インディアン・ツイスト〉により近い文脈にある実践として、ブラジル・バイーア州サルヴァドールの「ブロコ・ヂ・インヂオ」がある。これは一九六〇年代末から七〇年代にかけて若い黒人系の人々の間で人気を博したカーニバル団体の形態で、映画やテレビで見た合衆国の西部劇に登場するインディアンを模倣した衣装を身に付け、西部劇の悪役じみた暴力的な蛮行を伴ったパレードを行う。図式的に言えば、貧しい黒人系の若者が「映画のなかのワルモノ」に自らの周縁性を投影しているということになるだろう。この実践が興味深いのは、メディアを介した「他者」(主流的な価値観にとっての「敵」)への仮想的な同一化が、同地の若い黒人たちのより強固で真正な文化的アイデンティティ獲得の運動に転化していったことだ。 七〇年代後半から八〇年代にかけて、ブロコ・ヂ・インヂオに参加していた若者たちが中心になって、多くの「ブロコ・アフロ」が誕生している。つまり「インディアン」ではなく「アフリカ」を表現するパレードを行う団体だ。そこでは「アフリカ」は「故郷」「ルーツ」として位置づけられるが、それが演じられる仕方は、ある面ではステレオタイプ的な側面を多く含んだファンタジーに基づいている。つまり、「アフリカ」という「起源」に基づくアイデンティティを主張するための前段階として、仮想的な「偽」のアイデンティティの主張という迂回路が必要だった、といえるかもしれない。そもそも「インディアン」という存在自体が、西洋人によって誤って「インド人」と呼ばれた、つまり「偽」の呼称を押し付けられた人々であり、アフリカから新大陸に連れて来られた奴隷の子孫がこれを偽装することは、新大陸の「歴史」が、禍々しい暴力と虚偽に基づいて築かれたこと、そして、そこである種の人々に理不尽な犠牲を強いる「人種」や「民族」という観念自体がフィクションであることを暴露する行為であるといえる。 もちろん、集団的かつ継続的な営為であるマルディ・グラ・インディアンやブロコ・ヂ・インヂオと、一曲の(しかもほとんど忘れ去られた)ポップ・ソングを単純に重ね合わせることはできない。しかし、主流的な社会規範に対する「敵」である「他者」を仮想的かつ仮装的に演じること、そしてそれがもちうる美的・政治的な含意、またそこでの表象の原型的なイメージが、いずれもアメリカの主流的な(つまり白人的な)大衆消費文化に由来していること、といった諸点において共通点を見出すことは可能だろう。そしてそれは、二〇世紀の世界における「アメリカ」の、暴力的かつ魅惑的なプレゼンスについて、その圧倒的な影響の下にある立場から批判的に再考することにつながるはずだ。 本稿を書くにあたって、一方では、個人的に大きな衝撃と感銘をうけた「ポスト安保映画」である『偽大学生』と『真田風雲録』でジェリーがきわめて印象的な存在感を発揮していること、他方では、ニューオリンズとバイーアの音楽への長期にわたる愛着、という筆者の個人的な要因が作用しており、それゆえここで提示した解釈がかなり強引なものであることは否定できない。しかし、ジェリー藤尾〈インディアン・ツイスト〉が、ウエスタン〜ロカビリー〜和製ポップス、という過程において暗黙の前提になってきた「(白人の)アメリカ」と、それを忠実に模倣・翻訳する「日本」、という図式に抗う攻撃的な無意味さ(翻訳不可能性)を秘めた稀有の楽曲であることもまた確かである。インディアン、ウソつかない? あるいはインディアン、ウソしかつかない? ハオ!