連載|レコ屋な日々 a.k.a. 裏街道な日常 文●椿正雄

フラッシュ・ディスク・ランチ
「フラッシュ・ディスク・ランチ」は小田急線・井の頭線下北沢駅南口から徒歩3分。

下北沢「フラッシュ・ディスク・ランチ」店主の椿さんの連載が念願かなってスタート! 「フラッシュ・ディスク・ランチ」といえば、独特のタッチの雑誌広告やヘヴィ・ユーザー御用達のCDソフトケースでも知られるが、とにかくディープな品揃えと丁寧な商い、そして他を圧する低価格で、とりわけブラック・ミュージックのリスナーに圧倒的な支持を受けている、アナログ・レコードの輸入盤と中古盤の専門店。来日した海外のミュージシャンもしばしば訪れ、また日本のミュージシャンにもここのレコードを糧に活躍している人が数多い(ちなみにアルテスの事務所から徒歩5分)。

椿正雄
PROFILE

椿正雄

「フラッシュ・ディスク・ランチ」店主

つばき・まさお:1958 年、東京生まれ。1982年から世田谷区の下北沢でアナログ輸入中古盤専門店「フラッシュ・ディスク・ランチ」を営む。本業の傍ら1993年から96年にかけて『レコード・コレクターズ』誌に「ブラックミュージック裏街道」を連載。『ミュージック・マガジン』編集部の相談を受けて開発したCD用ソフトケースは、CDの収納に頭を悩ませている全国の愛好家必須のアイテム となっている。

18年振りのアラン・トゥーサン親子を観て気付いたこと

前口上

アルテス鈴木さんの強いご要望により、重い腰をあげて今月から連載をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。 僕は、下北沢の南口でもうほぼ31年間中古レコード屋をやっている。「実際、レコ屋を経営するというものはどーいったことか...」「どうゆう経緯で店を始めるにいたり、どんな苦労があるのか...」といったことを書いて欲しいというご要望だったのだが、そこはそれ、店はまだ青色吐息ながら続いている訳で、得意になって立ち上げ話・苦労話を書いても、その最中に店が傾きでもしたら洒落にならないし、そもそもレコ屋の片手間の似非ライター稼業で悟った俺流作文作法の極意は「自分のために書いた部分(=自慢話)を削れば少しはましな文章になる」というものなので、自分のことをあれこれ書くのはあまり気が進まない。 そこで、以前『レコード・コレクターズ』誌でお世話になった「ブラック・ミュージック裏街道」という、ブルース/ジャズ/ソウルといったアフロ・アメリカン・ミュージックを切り口として20世紀的音楽の核心に迫ろうと試みた連載シリーズ(93〜96年)が、自分としてはそれなりに言いたいことも言えていたので、その続きをぜひやりたい、さらには日々音を聞き考えるうちに気が付いた、もっと核心に迫る事柄を、レコード/データ等の具体的裏付けがなくともざっくばらんに書いていく[番外編]的なものも随時盛り込みたい......などと打ち合わせではお話をさせていただいた。 とはいうものの、そんな連載を再開するにはそれなりの準備が必要で、進めようとはしたものの特にこんなご時世、レコ屋稼業でも想定外のトラブル続発で気が付けばどーしてもと延ばしてもらった締め切りもとっくに過ぎている(連載開始を2ヶ月延ばしてもらった末に...w)。とまあ、以前連載を終了せざるをえなかったのとほぼおなじ理由から、今回もやはりカチっとした形での連載復活は見送らせてもらわざるをえないという結論にいたらざるをえなかった。まあ、店を営むということは業種問わずいずれもこんなものなのかも知れないが。 そんな訳で、やむにやまれずあまり準備の要らない(笑)日頃のレコ屋話、または日頃気付いた音楽についてのこと等をざっくばらんと触れる連載にまずはさせていただいて、タイミングでうまい題材が転がってきて、かつての連載のようなある程度まとまったことが語れる機会も虎視眈々と狙いつつ......と三者ミックスなカンジで行かせていただきたいと思うのでよろしくお付き合い願いたい。  

アラン・トゥーサンの作りだす小宇宙を堪能

レコード屋に、お客さんを除くともっとも頻繁にやって来るのが各種イベント/ライヴハウス/クラブのスケジュールのフライヤーを置きに来る人達だ。持っていく人もそこまで多くないのに何故そこまで手間をかけて......と思わないではないが、そこはまああちこち置いて露出を高めイベント/ハコの認知度をあげたいというあちらさんの狙いも十分理解できるので(たまに自分でもイベントやったりしたから...w)、まったく知名度のないバンドのライヴ告知とかでもないかぎり置いてあげることにしている(ちなみに、こうした場合は1枚だけ貼っといてあげると、どこ行っても断られてるみたいで凄く喜ばれる...w)。 だから、当店でいうと入り口階段の左右になるフライヤー設置スペースはいつも数十種類のフライヤーで溢れていて、終わったものを処分したりキレイに並べ直したりするだけで日常のちょっとした業務になっている......なのに、お礼に招待券を置いていこうというイベンター、ライヴハウスは驚くほど少ないのだ(月一でマンスリーを置きに来る一部のクラブ/ライブハウスを除いて...)!? 昔ながらの銭湯に貼ってある近所の映画館のポスターにもれなくご招待券が付いて来るのとはエライ違いじゃないか...!!!(膨大な量のマンスリー&フライヤーを何年間にも渡り毎月置いてる某有名ジャズ・クラブで観たいライブがあったので、割引きとかないのか電話で問い合わせ、そうゆうシステムはないと丁重に断られたこともある)。 そんななかで、六本木ミッドタウンのビルボードライヴ東京だけは、たまに招待券を送ってくれるので、可能であればありがたく利用させていただいている。しかも「4名まで」とか豪勢なので(まあ動員だからだろうけど...w)、先日もいただいたアラン・トゥーサンのソロ公演に店のお客さん 3 名を誘って見にいかせていただいた。 たしか、94年の豊橋でのフェスティバルで初めて観て、その翌年(同年だったか...?)くらいにまだ骨董通りにあったブルーノートで観て以来だから、かれこれ18〜19年振りになるのだが、いや、もうなんといっていいのか判らないくらい素晴らしかった。 過去に観た2回はバンドでの演奏だったが、今回は基本ピアノ1台での、息子のレジーが一部パーカッションで参加するというもの。しかし、内容はバンドとの時にまったく引けを取るものではなかった。ピアノ1台で自由に遊ぶアランの世界はまさに小さな宇宙を構築しており、逆にそれを存分に堪能できた点では今回の方が素晴らしかったといってもよいと思う。 アランの公式サイトを見ても、最近の多くの日程同様“SOLO”と記されている今回の東京公演だが、ビルボードジャパンの速報記事を見ると、やはり当初ソロでの公演と発表されていたものが直前になって急遽レジーの参加が決まったらしい。そして、先ほど「今回はソロ」と書いた通り、レジーが参加したのは冒頭数曲と終盤のみの全体でいえば3割程度。それもあまり必要性を感じられるような参加の仕方ではなく、ほぼソロでの公演といっていい内容だったと思う。 レジーは、現在アランのマネージメント会社の共同経営者を任され、マネージャーも務めているそうなので、今回は演奏するしないに関わらず同行することになっていたのではないかと思う。記憶では、94年の豊橋での公演ではバンドの確かドラマーとして、そしてブルーノートではパーカッション・プレイヤーとして同行していた。 当時、アランとも知合いのプロモーターから聞いた話によると、アランは予算が少なく小編成を余儀なくされる公演ではレジーをドラマーとして使い、そこそこバジェットがある場合は別にドラマーを連れて来てレジーはパーカッションに廻るのだということであった。そして、彼のレジーに対するドラマーとしての評価は決して高くはなく、人柄についても「アランはいー人だけどレジーはちょっと...」というような感じだった。僕も豊橋で文屋さんが行なったアランのインタビューの通訳を務めたときに楽屋でレジーを見かけたが、明るく廻りを気遣うアランとは裏腹、寡黙で取っ付きの悪い大柄な若者といった以上の印象は特にない。 今回の公演でもアランとの意思の疎通が必ずしも上手くいっていない点がしばしば見うけられ、ここは入った方がいーと思われるところでは入っていなかったりして、同行者の中からは「パーカッションいらね〜」との声も聞こえた。  

〈With You In Mind〉に隠された父子の愛

今回の公演は、〈St. James Infirmary〉など、2009年の『Bright Mississippi』からのスタンダード曲のインスト・カバーも交えながら、往年のアランの名曲オン・パレードな弾き語りライヴの新作『Song-book』とほぼ同様の内容だったのだが、なかでも胸を打ったのは78年の傑作アルバム『Motion』からの〈With You In Mind〉。かねてから何回聞いたか判らないくらい惹かれている、想い入れの強い愛聴曲ではあったのだが歌詞の内容がいまひとつ理解しきれないところがあった。それを今回このシチュエーションでライヴで聞き、「なるほどな...」とストンと落ちるものがあった。 歌詞はこちらでご覧いただけるが、一見「きみが一緒にいてくれればなんでもできる。きみのためならばどんな苦労もいとわない」という普通のラヴ・ソングと取れるし、おれも永年そうなんだろうと思っていた。ただ、「でも、なんで...?」と漠然と思っていたのはサビのこの部分。
Like a flower drinking from the falling rain Or the same rain that could wash it away Gives it strength, gives it water And before you know, another day (Words by Allen Toussaint)

コーダでも繰り返し唄われるこの部分だが、訳してみるとこうゆうことなる。

花は雨から(成長に必要な)水分も得るけれども 同じその雨に流されてしまうこともある (雨は)水を与えると同時に強さも与えている きみ(=花)がそうと気が付くより前に
どうです? どう考えても普通のラヴ・ソングではないでしょう? 今回のライヴで、まさにこの曲を聞きながら気付いたのは、これは必ずしもただのラヴラヴな曲ではないということだ。「状況は困難かもしれないけど、自分はいつでもお前を支えていくぞ」という決意の表明で、 そう思う根拠は単なる推測なので詳しくここには書けないが、これはアランがレジーに捧げた曲ではないかというのが俺の最も納得できる結論である。つまり、多少演奏拙かろうが、廻りからどう思われ何を言われようが、トゥーサン親子は元気に世界を演奏して廻るということだ。 そう思うと、通常どおりならソロだったろうライヴをレジーとの共演で聞けた日本のファンはきっと幸せだったと思う。多少あちこちで不都合な点があったのかもしれないが、その分きっと父さんはよりいー演奏をしたに違いないと思うので。  

蛇足

なお、この“With You In Mind”はもともとアランがプロデュースしたDeep Soul Singer、Lou Johnsonの同名アルバムに提供したもの。これも単なる推測でしかないが、この時点ではレジーを出産したお母さんであるアランの奥さんに向けて書かれた曲なのかもしれない。 アランが初期の代表曲の多くを、お母さんであるNaomi Neville名義で発表していることはよく知られているが(サイト中、近年のものは昔の曲のカバー、再録等)、同様に80年代以降はレジーの名義で発表された曲も少なくない(60年代の2曲はアランと同名のお父さん名義にした曲と思われる)。おそらく、その印税もすべて夫々(それぞれ)にあげているのではないだろうか? また、決して蛇足ではないが前述のアラン自身のHPにも全文が貼付けてあった『Wall Street Journal』によるアランのインタビュー記事(アランが育った家にどのようにしてピアノがやって来て、幼いアランがそれをどれだけ愛し友達になって育っていったかが飾らぬ言葉で語られている)が素晴らしいので、英語を判る方はぜひ読んでいただきたいと思う!

20云年振りの突然の来訪

レコ屋稼業を初めて以来毎年のことではあるが、12月は「歳末セール」的なアレコレで1年で一番忙しく、おまけに世間が休みに入っても年末ギリまで働かなければならぬ間に蓄積した疲れは当然数日の正月休みでは取れる訳もなく、その上数日ですぐまたゴングは鳴り、「初売り」だなんだで新しいペースもイチから掴まねばならない10日かそこらがやっと過ぎようとしていた1月のある日。正確には新年最初の2回の週末をようやっと終えた1月12日の日曜日、普段より1時間早い9時の閉店時間を迎え、いつものようにシャッターを閉め看板を取り込もうとしていた矢先、ちょうど店の前の通りを横切ろうとしていた一団の中の女性が声を上げた。 「え、ツバキさん…!?!?」 それはなんと20数年前、まだ店が半分以下のスペースしかなかった頃にしばらくバイトをしていた羽鳥美保ちゃんだった……。   とにかく仕事に妥協の許されないフラッシュで、いつの間にかいなくなった今となっては名前も憶い出せないその他大勢ではなく、日々の業務を見事こなして勤め上げ巣立っていった、いわゆる「フラッシュ卒業生」のなかには、その後才能を大きく開花させ、音楽業界各所で活躍した人達が決して少なくない。TOKYO No.1 SOUL SET川辺ヒロシくんことYou The Rock(彼は本当は勤め上げてはいないけど…w)、元UFO、Tei Towaのマニュピレーターで今はNYで頑張る小日向、元Bo Gumbos、スカパラのディレクターでその後Boredomsを手がけフリーになった名村くん、Ran-TinとしてRankin Taxiと日本中を巡るスーパー・ギタリストNodatin……。なかでも、世界を相手に成功し、創り上げた独自のスタイルがいまだ世界中にフォロワーを産んでいるCIBO MATTOの羽鳥美保ちゃんは、出世頭と呼んで間違いないだろう。   当時の美保ちゃんはまだ20歳そこそこで、小柄で前髪を額でキレイに切り揃えたその顔はまるでお人形さんのように可愛かった。ただし、頭は常に真直ぐ前を向いており、物怖じしない目力のある眼差しは中途半端なものは寄せ付けない、まさにクール・ビューティーという感じの少女だった。 初めておれが彼女を認識したのはバイトをしたいと申し出た時だったと思うが、「なんで働きたいと思ったの?」とのいつものおれの質問に彼女は顔色一つ変えずこう答えた。 「お金を貯めてNYに行こうと思ってます」 そして、数ヶ月後(だか1年後だか、2人ともちゃんと憶えていなかったw)、「辞めようと思う」というのでまた理由を尋ねると、 「お金が貯まったのでNYに行こうと思います」 と……。当時、それはまあビックリした。   おれも、20歳過ぎの頃当時働いていたインポーター(輸入レコードの卸屋)を辞め、お金を貯めるためにバーテンをしたことがある。当時温めていた店のアイデアが実現可能か、アメリカに行って確かめてみようと決意した時だ。当時はまだ実家住まいで、あまり多くはないインポーターの給料でも充分に余裕はあったのだけれども、このままレコードに関わる職場で働き、普通にレコードを買ったり、次から次へと来日する興味あるアーティストのライヴを観に行ったりしていれば、いつまでたってもそんな金は貯まらないということに気が付いたからだ。配膳会を通して勤めたその職場は時給1000円という当時としては破格の給料だったので、廻りからは「金を貯めたら◯◯やりたい(始めたい)」というハナシは数限りなく聞いた。その後、自分で雇う立場になってからもそんな話は常に聞いたけど、なかなか予定通りに物事は進まず、最終的には目標がすっかり変わってしまったりなくなってしまったりする例を数限りなく目にして来た。逆に、予定通り計画を実践しサクっと辞めていった人こそあまり見たことはなかったので、お人形さんのような彼女が平然とそう言い放って辞めていったのは当時非常にびっくりした。 その後、しばらくして彼女がCIBO MATTOという女性2人のユニットでデビューしたと聞いたときも驚いたが、その時もう既に「やはり…」という気持ちの方が強く、 おれとしては颯爽と辞めていった彼女の姿の方が衝撃的ですらあった。 その後彼女と逢う機会は一度もなく、「卒業生」のほぼ全員たまに店に寄ってくれたりどっかこっかですれ違ったり、または共通の知人を通してなんらかのコミュニケーションを取ったりすることたまにあるのに対し、住んでるのがNYということもあるんだろうけど、日本に来ても彼女は一度も寄ってはくれなかったし、彼女の口からフラッシュの名が出たという話も聞いたことがなかったのは正直寂しかった。昨年一昨年とシモキタでライヴをやったらしいという話を後で聞いた時も、「そっかー、近所まで来てたのか~」と思った。もしかしたらあまり好かれていなかったのかもしれないし、フラッシュでの経験は彼女の中では取るに足らないことだったのかもなぁとも思ったりしていた。   だから、その声が「美保です、昔バイトしてた羽鳥美保です…」って続けたのを聞いたときは我が耳を疑った。彼女は、その日昨年と同じ下北沢のライヴハウス「440」でライヴだったらしく、同行してたのは従妹のリエちゃん、その弟の太郎くん、あとリエちゃんの旦那様で英国人のジュリアンさんの総勢4人。どうも美保ちゃんは皆に「ここ私が昔バイトしていたとこ…」と皆に説明していたところだったようだ。   階段上がって店に入った美保ちゃんの最初の言葉は「ツバキさん、あのDATのテープはまだあるんですか?」だった。 「え、DATって?」とおれは最初忘れていて判らなかったのだが、それは当時営業中の店内BGM用に用意していつも流していたテープのこと。ロックやソウル、ジャズ・ファンク、ジャズ、レゲエにヒップ・ホップ、オールディーズのヴォーカル物からロカビリー、ラテンやレゲエ、アフロその他の民族音楽など、とにかくフラッシュで扱うあらゆるジャンルの音楽を幕の内にして詰め込んだ物で、店内のあちこちの棚から駆り出されたレコ達から録音していたた。はじめはカセット・テープで作っていたのだが、美保ちゃんがいた頃は「録音時間が長い」という理由からDATに乗り換えていたのだと思う。 これを作るようになったのは、単にレコードをかけ替えながらの営業だとどうしても業務に支障が出るからなのだけど、もうひとつはかける人によってどうしてもその好みが出てしまい、店としてのカラーが出て来ないということもあった。わざと節操なくいろんなジャンルを飛び回るような選曲にしたのは、自分が興味のない音楽ばかり聞かされているとお客さんはどうしても早目に帰ってしまうことに、観察の結果おれが気が付いたからでもある。かかる音楽の置いてある棚を順次追って眺めると、それは少しづつ移動していくのではなく、まさに店内広しとあっちへこっちへ飛び回るように作った。でないと、いつ何時どんなお客さんが来てるか判らない店の営業に、あらかじめ作られているテープでは対応できないからである。 「あれはミックス・テープのはしりだったよね~。あれでRoy Ayers〈Everybody Loves The Sunshine〉とかも覚えた」 その後、彼女は従妹達にフラッシュで、そのBGMのテープからいかに自分がいろんな音楽と接し、身につけて行ったかを説明しているようだった。おれは、さっきまでホントは「え”~~、ようやっと店閉めたのにまたレコード見てくのかい…」と少し思ってたんだけど、すっかり嬉しくなって隣の酒屋へとビールを買いに降りて行った……。 確かに、「フラッシュ卒業生」には一緒にライヴ観に行ったりスタジオ入ったり、イロイロと遊んだ楽しい想い出の沢山ある奴らもいるけど、そんな余裕ない時に働いてくれてた中には、ただただこき使い辛く当たった思いしかなく、おれからすると悪いことをしたなぁ…としか思えないのになんでいまだにフラッシュのことをリスペクトしてくれ折々に寄ってくれたりするのか判らない部分があったりもしたのだが、「なるほど、それはこーゆーことか…」と腑に落ちる部分があって、そんな発見もとても嬉しかった。 その後、一行は小1時間レコードを物色し、お互いにいいと思うレコを勧めあったり銘々が数枚ずつ買っていってくれた。ロンドンでアクセサリーを作るリエちゃんやどうもギターおたくであるらしいジュリアンさん、マルチ・プレイヤーである太郎くんとも少しずつ話をする機会があったけど、羽鳥ファミリーは大変音楽IQの高さwを感じさせてくれて、音楽に関してはまったくの素人と思っていた(失礼…!!!)美保ちゃんがあれよあれよと成功していった背景を垣間みるようで大変興味深かった。   https://twitter.com/mihohatori/status/422398840688218112   おれが美保ちゃんに関して非常に印象深く憶えていることは、この曲を凄く気に入っていたということ。特にヴォーカルのテキーラがお気に入りだったようだ。当時、おれはそこまであんまり良さを判っていなかったかもしれないが、スタッフや廻りの人、お客さんが「好き!」という曲は自分にとって未消化でもなるべくBGMに入れて接する機会ができるように心がけていた。そうしていると、知らず知らずのうちにそれが自分の一部になって来るような気がする。そして、それこそがおれにとっての「レコ屋道」なのではないかと思っている。   http://www.youtube.com/watch?v=sWMgpe6vULo ♪The Tony Williams Lifetime - You Make It Easy   https://www.youtube.com/watch?v=_3zX_AT0Xco&noredirect=1 ♪CIBO MATTO - MFN w/ Special Guest Reggie Watts (Official Music Video)