情報と物質と思い出横丁情報科学芸術アカデミー 文●馬定延(マ・ジョンヨン)

昨年末に小社から刊行された『日本メディアアート史』の著者、馬定延さんがエッセイを寄せてくださいました。同書で初めて俯瞰された通史の「これから」を、「思い出横丁情報科学芸術アカデミー(OAMAS)」に仮託して語っています。2/26(木)からはOAMASの2人と馬さん、そしてモデレイターとして詩人の松井茂さんを迎えてのトークショーがNaDiff a/p/a/r/tにておこなわれますので、ぜひご参加ください!

PROFILE

馬定延

1980年韓国ソウル生まれ。韓国延世大学人文学部(英語英文学、心理学)および韓国中央大学尖端映像大学院修士課程(芸術工学)を経て、東京藝術大学大学院映像研究科博士課程(映像メディア学)を卒業。現在、東京藝術大学非常勤講師および国立新美術館客員研究員。


 2014年7月19日から8月8日まで、東京藝術大学美術館陳列館にて「マテリアライジングII――情報と物質とそのあいだ」展が開催された。「テクノロジーとアートについてのより批評性・現在性の高い展覧会を目指して」企画したという主催者の意図が的を射たのか、これから訪れるはずの近未来に対する意義ある発言に見えた前年より見応えのある展覧会になっていた。展覧会の構成は変化したとはいえ、その背後にある、レーザーカッターや3Dプリンターなどのデジタル・ファブリケーション技術の発達にともない、作品にかんする思考と制作プロセスがさらなる同時性を帯びてきたという時代認識は、2回の展示に一貫していた。2015年に京都で第3回の開催を予定しているこの展覧会シリーズがたくさんの注目を浴びたのは、このような時代認識が企画者と出品者にかぎられない同時代の人々に広く共有されているからであろうし、またその意味で、建築、デザイン、アートなど、本展の領域横断性は必然的な帰結だったといえる。    一連の「マテリアライジング」展とその反響は、歴史的な観点から考えると、複製技術によるマス・プロダクションがその絶頂に向かって進行していた60年代から70年代との対照で興味深い現象である。ポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートなどの現代美術の動向の背景となるこの時代には、コンセプトとリアライゼーション、思考と制作プロセスをいかに切り離して考えるかという問題が浮上していた。もちろん、この問題がアーティストの創造性の在処はどこか、さらには芸術の本質とは何かという根本的な命題に直結していることはいうまでもない。日本国内でも、情報価値の生産主体としてのデザイナーの存在が社会的に大きく注目されるなか、アーティストの「手」をめぐる議論や東野芳明(とうのよしあき)による「発注芸術」概念が美術界を振わしていた。また比較的にマイナーな系譜であるが、《イリアック組曲》(1957)のような音楽部門におけるコンピュータをもちいた芸術的実験より数年遅れて、画像を制作する実験が世界各地で活発におこなわれ、コンピュータ・アートとよばれていた時期である(念のために付け加えると、この時差はコンピュータの処理可能なデータ量と出力装置という現実的な原因で説明される)。    コンピュータをもちいた当時の実験のほとんどは、高価で取り扱いにくい大型電子計算機だったコンピュータのある場所、すなわち大学と企業でおこなわれていたが、おそらく同じ理由で「マテリアライジング」展の出品作の半数以上は、大学における創作と研究の現在を示していた。これらの境界を曖昧にさせる新しい創造性として高く評価したい出品作は、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の《車輪の再発明プロジェクト》だった。このプロジェクトを以前から知っている観客なら誰でも過去数年間の進捗と深化を看取することができたのであろう。   [caption id="attachment_3224" align="alignnone" width="375"]情報科学芸術大学院大学(IAMAS)《車輪の再発明プロジェクト》 情報科学芸術大学院大学(IAMAS)《車輪の再発明プロジェクト》[/caption]    さまざまな専攻の大学研究室とともに「ご近所ものづくり同盟」など、チーム単位のプロジェクトによる成果物が主流をなしている会場のなか、異様な存在感で目立つ出品作があった。出品者は思い出横丁情報科学芸術アカデミー(OAMAS)所属の2つの研究室だとされているが、場との関わり方からしてこれらはどうも個人のアーティストによる制作にしかみえない。事前に設定され、共有された何かしらの課題と成果があるというよりは、テクノロジーの現在に対する主観的な解釈が、はたしてどれくらいの他人と共有可能かと、この場ではじめて実証しようとする試みに思えたのである。    両方の作品には、まるで道具を使わず半分に割ったみたいに、ラフな仕上がりの板からなる作業用の机が台座の代わりに使われていた。そのためだったのか、本展のメッセージどおり地続きとなった思考と制作の「ワーク」がまだまだ進行中であるという、文字どおりの意味での「ワーク・イン・プログレス(work in progress)」の印象を与えていた。コンピュータが介入する作品の場合、その存在じたいは巧妙に目隠しされるか、あるいは全面に露出される場合が多いが、思い出横丁情報科学芸術アカデミーの作品におけるコンピュータは、片方は意図的に不完全なかたちでカバーされ、もう片方は会場から存在を消して、街のなかのコンピュータに委ねられていた。    カバーのためにかぶせたかのように見えるぐしゃぐしゃのブルーシーツだが、またそれが木材の床の上で意外なほど映えている。机の上のほうには、実在する/しない事物の関係性によって触発されたある瞬間をほぼ脅迫的に繰り返す、モニター上の映像と微細な音を発生させるモータ付き装置といくつかの物がある。作者によると、タイトル《物的証拠》とは「出来事の外側の、雌型のような部分で、物質に出来事の痕跡/証拠が残る事がある。そうしたもののうち、人以外の有体物による痕跡/証拠」を指し示す言葉である。いかなる疑いも拒絶しているかのような頑固な語感のタイトルを掲げつつ、作者はリアリティの感覚を生み出すある瞬間に対する繊細な感受性を見る側がどれくらい共有できるかをたしかめているのではと、筆者には思われた。ところが、作者自身はそれ以上に確信に満ちていたようだ。じっさい、本展でとりわけ話題となったのは「マテリアライジングじゃないほう」という作者のエッセイだった。「情報と物質とそのあいだ」という副題に対して作者は、情報と物質が対置しえない概念だと指摘したうえで「情報は物質の存在と不在の差異の中に存在」するので「物質として存在する側でなく、知覚不能だが、確かにそれを情報たらしめている物質の不在の側に目を向ける事」が必要だと力説したのである。このエッセイと作品の組み合わせには、たしかに強い説得力があった。   [caption id="attachment_3201" align="alignnone" width="500"]谷口暁彦研究室《物的証拠》 谷口暁彦研究室《物的証拠》[/caption]    そのいっぽう、隣の作品の作者も、情報と物質の概念を分けて考えるという展覧会の前提に同意せず、情報と物質とのあいだに何かがあるとしたらそれは「私」だと述べた。出品作《ツナとマヨネーズ》は、机の上に並べられた、コンビニレシート数枚からなるインスタレーションである。紙というもろい「物質」であるレシートというのは、商品の項目と値段、買い物行為がおこなわれた日時と場所、さらにはその背後にある流通企業から消費者へのメッセージまでが記載されている「情報」の塊である。購入された商品が日用品であればあるほど、たとえば、ツナとマヨネーズ味のおにぎりのように食品であればなおさらに、その情報はプライベートなことになる。ポケットやカバンのなかで誰もが見たことのあるかたち、すなわち、ぐしゃぐしゃになったレシートを、自分の身体によって制作された「折り紙」とみなした作者は、その設計図をデータ化し、ウェブページ(www.open-trash.net:現存しない)でダウンロード可能にした。しかし、自分の体を3Dプリンターに見立てた奇抜なコンセプトとインターネット上の実装への手がかりは、じっさいの展示空間のなかでは、レシートと折り紙図の見本とキャプションという最低限の物理的な形態をとおして提示されているのである。このミニマルさが、まわりの出品作によって際立つのはいうまでもない。この場を離れた観客が、スマートフォンとコンビニの機械をふくむ、街のコンピュータを介入させることで、作者の考える情報と物質と「私」の関係性が共有されるという本作の仕組みを、今日の「発注芸術」だとよぶことができるかもしれない。   [caption id="attachment_3202" align="alignnone" width="375"]渡邉朋也研究室《ツナとマヨネーズ》 渡邉朋也研究室《ツナとマヨネーズ》[/caption]    いまさらだが、思い出横丁情報科学芸術アカデミー(OAMAS)とは何だろう。研究室の名義で本展に参加した若手アーティストの谷口暁彦(1983年生)と渡邉朋也(1984年生)は、みずからを「新宿の思い出横丁で発見されたメディアアートにまつわるエフェメラルでアンフォルメルなコミュニティ」であると紹介する。この名前をはじめて聞いて即座に笑ってしまう人は、実在する場所の印象と名称とのギャップを知っているか、岐阜県国際情報科学芸術アカデミー(1996−2011)と情報科学芸術大学院大学(2001年開設)からなる、世界的なメディアアート専門教育機関IAMASを知っているのであろう。IAMASをもじったOAMASの開校の背景には、2010年を前後する時期から現在まで、メディアアートが置かれていた状況がある。筆者は、同時期に浮き彫りにされた「断絶」を反映させるため、拙著『日本メディアアート史』の終章を意図的にやや後味の悪い終わり方にしたのである。   [caption id="attachment_3200" align="alignnone" width="500"]思い出横丁情報科学芸術アカデミー(OAMAS)の渡邉朋也氏(左)と谷口暁彦氏 思い出横丁情報科学芸術アカデミー(OAMAS)の渡邉朋也氏(左)と谷口暁彦氏[/caption]    2015年2月26日、恵比寿のNADiff a/p/a/r/t で、刊行記念トークイベント「編み直されるアートの現在――研究者の記述とアーティストの思考」(モデレータ:松井茂)が開催される。教育と制作の現場で、テクノロジーの現在を敏感に感知して表現につなげている思い出横丁情報科学芸術アカデミーの2人との議論をとおして、自分の記述してきた歴史に現在のページを書き加えたいと思う。   マテリアライジング展 http://materializing.org/ 思い出横丁情報科学芸術アカデミー http://oamas.org/ 谷口暁彦 http://okikata.org/ 渡邉朋也 http://watanabetomoya.com/ 情報科学芸術大学院大学(IAMAS)《車輪の再発明プロジェクト》 http://www.iamas.ac.jp/projects/145   [caption id="attachment_3174" align="alignnone" width="353"]日本メディアアート史 馬 定延 著 2014年12月20日発売 アルテスパブリッシング刊 日本メディアアート史
馬 定延 著
2014年12月20日発売
アルテスパブリッシング刊[/caption]