世界のケルト音楽を訪ねて〈マン島編〉 文●トシバウロン(バウロン奏者)

アイルランドの打楽器バウロンのプレイヤー、トシバウロンさんによる世界のケルト音楽探訪記。

昨年ブリテン島を取材した成果をお伝えするレポート第3弾は、〈スコットランド編〉〈ウェールズ編〉に続いて〈マン島編〉をお届けします。バイク・レースで知られているとはいっても、日本にはなじみの薄いこの島。現地のミュージシャンの薦めにしたがっていきなり飛び込んだトシさんの取材の成果をどうぞお楽しみください。

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PROFILE

トシバウロン

1978年、東京生まれ。日本では数少ないバウロン専門のプレーヤー。他の楽器と波長を合わせグルーヴを作り出すことに長けているが、首が曲がりメガネが弾け飛ぶほどダイナミックな動きには賛否両論がある。2000年冬アイルランド留学中にアイリッシュ音楽を始めパブセッションで研鑽を積む。現在東京にてJohn John Festivalを軸に多様な活動を展開中。2012年スペイン国際ケルト音楽フェスでHarmonica Creamsとして日本人初の優勝を果たす。葉加瀬太郎、鬼束ちひろのレコーディングにも参加。アイリッシュ・ミュージック専門イベント企画やCD販売レーベル「TOKYO IRISH COMPANY」を主宰している。http://www.t-bodhran.com/

第1回 ロリアン国際ケルト音楽祭

     スコットランド、ウェールズときて、2015年最後のケルト音楽調査地はマン島 isle of manにすることにした。マン島ってどこ? そんな島があるの? と訝しむ人も多いかもしれない。一部のバイク・ファンなら「ああTTレースの島だね」と頷いてくれるかもしれないが、それ以外の、ましてや伝統音楽となると日本で知る人はほとんどいないだろう。白状すれば私自身、マン島に向かうまではどのくらいの規模でどんな歴史があるのか、などまったく知らなかった。     写真01 ▲マン島国旗      いまでこそインターネットで色々と知ることができるが、それでも調査の際、口コミは依然とても大事な情報源だ。スコットランド調査中にグラスゴーで会ったトーマス・カリスター Tomas Calisterとアダム・ローズ Adam Rhodes に、8月9日から1週間ほどマン島に調査に行こうかと思っていると伝えると、激しく首を横に振られた。 「やめた方がいい。その時期マン島のミュージシャンは一人も島にいないよ」  私の下調べ不足だった。今年はフランスのブルターニュ地方で開催されるロリアン国際ケルト音楽祭で、マン島とコーンウォールが初めて特集される年なのだという。 「みんなロリアンに出払っているんだ。だから調査をしたいなら、むしろロリアンに来たらいい。みんなに会えるし紹介もできる。俺たちのステージに上がって一緒に演奏してもらいたいしね」    話を聞くうちに、これはロリアンに向かった方がいいのかな、という気がしてきた。最終的に決断したのはフェスが始まる1週間前だった。急すぎて宿のあてもなく、3日前にメディアパスの申請を出してようやくそれが通ったくらいのバタバタだったが、気分は高揚していた。ウェールズのフェスティバルを終えた翌日はもうフランスの地を踏んでいた。     *ロリアン国際ケルト音楽祭のページ http://www.festival-interceltique.bzh      ロリアン国際ケルト音楽祭 Festival Interceltic Lorientは45年にも及ぶ歴史を誇るフランスの国際ケルト音楽フェスである。開催期間は10日間にも及び、昨年の動員は述べ75万人という巨大な規模を誇る。    開催地の港町ロリアン Lorientがあるブルターニュ地方はケルト語圏であり、ブレトン伝統音楽が盛んな地域である。この地域の伝統楽器であるバガードのコンテストが発展し、現在の国際的ケルト音楽祭となった。ブルターニュ、アイルランド、スコットランド、ガリシア、アスゥリアス、ウェールズ、コーンウォール、マン島が参加主要ケルト圏である。90年代以降はカナダやアメリカ、オーストラリア、ニュージランドなどの国も参加するようになった。     写真02 ▲参加国が集まった国旗      フェスティバル・ディレクターのリザルド・ロンバルディア Lisardo Lombardia によれば、1996年から特定の文化圏を特集した企画を始めたという。今年のテーマには初めてマン島とコーンウォールという二つの地域を選んだという。  マン島は人口8万人、コーンウォールは人口52万人で、共に規模としては小さすぎるため、今まで単独開催が見送られてきたのだという。今年は満を持してということで、両地域から音楽やダンスのチームがこぞってこのロリアンにやってきているのだった。両地域合わせて総勢200名にも及ぶという一大チームである。     写真03-1 写真03-2 写真03-3 写真03-4 ▲街に音楽が溢れるロリアン国際ケルト音楽祭     それにしてもロリアンの熱気は凄い。到着したときは夜の11時をまわっていたが、街中が音楽で賑わっていた。ホテルの真下でドラム入りのロック・バンドが演奏しているのを見つけたときには、「このお祭りは絶対日本では成り立たない」と思ったものだ。    ロリアン・フェスティバルの中心にはチケット販売所と運営事務所及びコンサートホールのあるコングレス・パレス Congress Palace があり、その横にはパビリオンとよばれる会場がある。今年はマン島とコーンウォールが共催でパビリオンを運営していた。     写真04-1 写真04-2 写真04-3 ▲パビリオンの様子      マン島とコーンウォールの違いはなんだろうか? 1週間もかけて見てみると、その差はハッキリとしてくる。そして蓋を開けてみれば今年はマン島の勢いが猛烈だった。    例えば2地域が同時にショーを行うプログラムがあった。マン島のショーは楽団・ダンサー・コーラス・ブラスバンドが渾然一体となって進行した、完成度の高いものだったが、コーンウォールは出演バンドがそれぞれ数曲ずつ演奏するという形で、一体感に欠ける演出(そもそも演出がなかった)だった。ショーだけでなくマン島のバンドはバンド・コンペティション部門でも1、2位を独占し、勢いをみせつけた。コンペはアイルランドやスコットランドなど強豪国から選りすぐられたバンドの中で勝ち抜くわけで、なかなか熾烈である。今年は1位がバルー Barrule、2位がルース・ケギン・バンドRuth Keggin band だった。     *バルーが優勝したことを報じるニュース動画 http://www.manx.net/tv/mt-tv/watch/73667/interceltique-lorient-manx-win   *バルーによる優勝コメント http://www.barruletrio.com/news/trophy-win-at-lorient/      余談だが、じつはフェス側も地域によってランクをつけている。例えば地元のブルターニュやアイルランドは招聘可能人数が多く確保されている一方で、マン島やコーンウォールなどは少なく、大きなステージでの演奏機会も与えられてこなかったという。  マン島のチームを代表するエイリー・シェアード Ealee Sheard も「一昨年までは招聘できるのは30人と制限されていたが、昨年は50人に増え、今年の成功で今後も同様の人数を確保できることになりそう。これはフェス側が私たちの功績を評価している証拠だと思う」と言う。  ではなぜマン島はフェスでの成功を勝ち取ることができたのか? マン島の政府文化振興機関「カルチャー バニン Culture Vannin」の音楽担当クロイ・ウーリー Chloe Woolleyは「マン島の長所は結束力が強いところだと思う」という。「島の人たちはお互いにお互いのことをよく知っている。そのまとまりが今日の躍進を生んでいるのではないか」と分析する。    そのチームワークは実際のところ肌で感じることができた。友人たちの誘いもあり、連日ステージにあがって演奏する機会を得たことで、マン島のコミュニティーの中に入ることができ、彼らの連帯感を強く感じたのだ。同時に新しい世代が台頭しつつあることに強い興味を持った。そこでロリアン・フェスティヴァルが終わった後、改めてマン島を訪ねることにしたのである。

第2回 言語、ダンス、音楽

 マン島チームとすっかり打ち解け、彼らのチャーター便に同乗してマン島の首都ダグラスに降り立ったのは、フェスが終わった翌日の8月17日だった。90人の集団に囲まれて、歓迎されなからマン島の地を踏む。     写真05-1 写真05-2 写真05-3 ▲バスとチャーター機      人口8万人、面積は淡路島とほぼ同じ、アイリッシュ海に浮かぶ小さな島、マン島は英国王領ではあるが、自治権のある独立した島だ。独自の通貨(マンクス・ポンド)を発行し、固有言語のマン島語 Manx を話し、アイルランドとイギリスに囲まれながらケルト文化を育んできた。日本人には馴染みが薄いかもしれないが、バイクファンには垂涎のマン島TTレース、という世界最古のオートバイレース開催場所として知られている。  また税率が低く設定されているため、企業が節税目的で子会社を島内に設置していたり、金融業が非常に盛んな場所としての認知も高い。近年はeビジネス、映画産業やハイテク産業の育成にも力を入れていて、2008年まで過去25年間連続して経済は拡大発展、近年の失業率は10%未満だというから驚きだ。     写真06-1 写真06-2 写真06-3 写真06-4 写真06-5 写真06-6 ▲いまも蒸気機関車の走る島。機関車トーマスのモデルとなった場所としても知られている。      景気は伝統音楽の復興にも影響するのだろうか。70年代以降の伝統回帰により、マン島でも音楽、ダンス、言語のリバイバルが盛んに進められてきた。言語面では、マン島語だけの初等教育学校 バンスカル ゲルガッハ Bunscoill Ghaelgagh が2001年に発足し、以来若年層を中心にマン島語話者を増やしている。現在では人口の2%の2000人がマン島語を喋れるという。    独特のスタイルをもつダンスも盛んだ。一度は伝統が死に絶えつつあったが、20世紀半ばにモナ・ダグラス Mona Douglas やレイトン・ストウェル Leighton Stowell といった人々の尽力で復活した(特にモナはダンスに加えて歌や詩などマン島語を含めたマン島文化全般のリバイバリストとして評価されている)。現在では興行としてショーを行えるダンス・チームが4つあり、他にもアマチュアのチームも複数あるという。  ステップダンスを基本としながら、棒を使うダンスなど、ケルト圏では珍しく上半身を活用したダンスでも知られる。     写真07-1 写真07-2 ▲ロリアンで披露したマン島のダンス *棒を使ったゴース・スティック・ダンス Gorce stick dance      ダンスの復興と共に伝統音楽も見直されていった。かつてコリン・ジェリー Colin Jerry というパイパーがいた。彼は2008年、なんとセッション中に亡くなるという劇的な最期を遂げているが、若かりし頃は伝統音楽のリバイバルに大きく貢献していた。マン島で演奏されるレパートリーの多くがアイルランドやスコットランドの曲で、マン島独自の曲が演奏されていない状況に業を煮やした彼は、自ら収集した島固有の伝統曲を2冊の楽譜(“yellow and red”とよばれる)にまとめ1978年と79年に発売したのだ。     写真08 ▲黄色本と赤本      この楽譜が発表されたのを機にマン島伝統曲の見直しが進む。  グレッグ・ジョギン Greg Joughin は島のミュージシャンで、モラグ The Mollagsというバンドを率いている。バンドの音楽自体は伝統音楽ではないが、島のシーンを長年見続けてきた重要人物だ。グレッグは、彼の子供の世代にあたる層が今の躍進の原動力を作っているという。   「なかでもフィドルのトーマス・カリスターの存在は大きい。まだ22歳だが、すでに圧倒的な存在感と世界のトップレベルで演奏できる逸材だ。彼がマン島の曲を演奏することで、若い層をはじめ多くの人がマン島の伝統曲の魅力を再発見しはじめた」という。    たしかにトーマスの存在は象徴的だ。島の多くのミュージシャンたちも、島の音楽のこれからを担っていく存在として一目置いている。彼が育った背景に謎を紐解く鍵がありそうだ。彼の実家や友人たちを訪ねて聞き取りを行うことにした。     ▼トーマスがメイン奏者のバンド、メック・リル Mec Lirの〈The Grackle〉 https://www.youtube.com/watch?v=Baoz3p4HhX4

第3回 切磋琢磨する若きミュージシャンたち

 トーマスは「島のセッション・シーンは、アイルランドやスコットランドと比べてしまえば、多少のんびりしている」という。現在セッションは水曜日に首都ダグラス Dounglas のアイリッシュ・パブ、金曜日に北の街ラムジー Ramseyの2日だけで、あとは不定期に開催されている。雰囲気は、アイルランドやスコットランドの街のセッションのように腕を磨いてバリバリ向上したい人の集まり、というよりはむしろアマチュアのおじさんおばさんが日々の楽しみで演奏しているという方が近い。セッション・シーンは時にメンバーによりレベルが劇的に変化するので今後はわからないが、トーマスが島のセッション・シーンで揉まれ育ってきた、ということはなさそうだ。    やはり基本は家族の繋がりにある。トーマスはそう断言している。彼の音楽の原体験には、幼い頃に父親ポールからの影響があるという。だが、父親自身が特別な教育を施したわけではないらしい。「何も特別なことなんかしてはいない。機会があれば外に一緒に連れて行って演奏したくらいだ。教会やセッションでね。ただ、彼はよく練習していたよ」5歳年下のアイラ Islaも練習の時の足音が家の中に一日中響いていた、と証言する。「ほんとにうるさいくらいだったの。ドンドンとリズムをとる足音が聞こえてね」。家族、そして近しい友人たちは、日々自己研鑽するトーマスを記憶している。そんなアイラもトーマスに刺激されたのか、今では島の若手有望株のフィドラーに成長した。家を訪れた時に、彼女が末っ子の妹に練習をつけている姿をみかけて、家族と音楽の関わりを微笑ましく感じたものだ。     写真09 ▲妹二人 微笑ましい。      さて、トーマスは現在メック・リル Mec Lir というバンドを率いている。そのバンドに在籍するキーボードのデヴィッド・キルガロン David Kilgaron とブズーキ/ギターのアダム・ローズ Adam Rhodes は30代前半。高校時代にキン・キョーリー King Chiaulee というバンドで活動していた。2008年にはロリアン音楽祭でマン島初となるバンド部門優勝を勝ち取るなど、若い世代の伝統音楽シーンを牽引したバンドである。  少し上の世代の活躍はトーマスらの世代には眩しく映ったようだ。そんなトーマスをデヴィッド自身はこう評する。「彼は島のスタンダード・レベルを間違いなく押し上げたと思う。いつも同じことの繰り返しのようなこの小さな島では、それは滅多にないことだ。彼はとてもよく練習していたし、スコットランドに修行にいったのも大きかった。そこで沢山の優秀なミュージシャンたちとコネクションをもち、それが島にいい形で還元されていると思う」    島のシンガーで、同じくロリアン音楽祭で2011年に優勝したルース・ケギン Ruth Keggin もキン・キョーリーやトーマスに影響を受けているという。「やっぱり近い世代の活躍はとても刺激になる。トーマスもそうだけど、私たちはお互いに影響を受けあいながら切磋琢磨しているの」。彼女はそれが昨今の島の音楽状況に一番影響を与えているのではないか、と分析している。「ロリアンで2008年、2011年、そして今年と3年もマン島のバンドが優勝しているのは本当に嬉しいし誇らしいわよね」     写真10 ▲ルース・ケギン      また島への移住者も大きな刺激にもたらしている。ウェールズ出身で現在はマン島に住むアコーディオン奏者ジェイミー・スミス Jamie Smith は、トーマスやアダムと共にバルー Barrule というバンドで活動している。彼がマン島に惹かれたのは家族(奥さんがマン島のダンサー)の影響もあるが「とにかくマン島の一員なんだ、という気持ちがあるんだよ」と彼は言う。「個人的には愛国主義者ではないので、ウェールズ出身とかマン島のミュージシャンだということをことさら主張はしないけどね」。  彼はマン島の音楽について「アイルランドやスコットランドのようにハッキリとしたスタイルがあるわけではなく、アイルランドやスコットランドの影響を受けて混ざっている」という。そのため一見するとユニークではないかもしれないが、レパートリーをみればそれが特別だとわかる、という。「マン島国家の元になった〈モルクランズ・マーチ mylecharaine’s march〉という古い曲があるんだけど、これは本当にいい曲なんだ。マン島らしさがあるしね。バルーが新しいアレンジで演奏し始めてから、島でもレパートリーの一つとして見直されるようになったと思う」とジェイミーは胸を張る。     ▼バルーのプロモーション・ビデオ https://www.youtube.com/watch?t=61&v=xwBQAMl1dbA      移住者ではないが、島の音楽発展に寄与している人々もいる。ハープ奏者のレイチェル・ヘア Rachel Hair は5年ほど前から島に毎月通ってハープを教えている。「ここ5年で島の音楽環境は驚くほど変わったと思う。やっぱりジェイミー、アダム、トーマスといったプレーヤー達がシーンをリードしてきたのが大きいと思う。今までは遠く眺めているだけだったものが、私たちにもできる、という雰囲気になってきた気がする」。最初の頃は1日で済んだレッスンが、今では3日かけて教えるほど生徒の数も増えたという。

第4回 マン島音楽の未来

 こうして若きタレントが揃い始め、マン島の音楽が花開こうとしている。それを組織的に支える動きがあるのも心強い。  マン島文化全般を支援する政府団体「カルチャー バニン」はミュージシャンやバンドの活動を、財政面でもプロモーション面でも支えている。バルー、メック・リル、ルース・ケギンといった島の若い世代のCDには制作費を支援し、島内の販売網を整備している。レイチェルら島外からミュージシャンを雇用するための資金も援助している。またマン島でのケルト音楽祭も7月に開催、地元以外の外部からもミュージシャンを招聘し、マン島での伝統音楽認知向上を図っている。     写真11-1 写真11-2 ▲カルチャー・バニンが支援したCD      音楽担当のクロイは、学校での伝統音楽教育にも力をいれているという。「私が伝統音楽で論文を書いた70年代は主にイングランドの音楽教育を踏襲していて、島の伝統音楽教育には力を入れてなかった。そこで、中学校でマン島の音楽史や楽曲を学ぶ機会を作った。いまでは教材も作り、教員も伝統音楽を教えられる体制を構築している。こうして今では言語と同様にマン島の音楽を学べる機会ができつつある」    人々の結束、若い世代の台頭、文化振興団体による支援体制、こうした要素がマン島の今日の伝統音楽の躍進を生んでいる。とはいえまだ規模は小さく、課題も多く抱えている。    一番の課題は、島の中では音楽で生計が立てることが難しいということだ。ルースは「フルタイムで伝統音楽をやっている人はほとんどいないと思う。私は今年の9月からフルタイムになる予定だけど、それでもマネジメントを自分でやったり、教えたりと、様々なことをしないと成り立たない」という。多くのミュージシャンは島外にツアーに出かける。しかし飛行機やフェリーなど交通費が嵩んでしまうのは悩みの種だ。またトーマスやアダムといったトップ・ミュージシャンは活躍の場をもとめてスコットランドに移住している。今後レベルの高いミュージシャンが育成されても、島に留まるかどうかは定かではない。    一方、さらなる発展進化の兆しもある。デヴィッドは「今後マン島語の教育が広がれば、詩や歌の方面でもっとマン島色を打ち出した音楽が増えるだろう」と分析する。マン島語話者の人工は、一時に比べて格段に増えたという。1974年に最後のマン島語ネイティブ・スピーカーが亡くなったが、その後を継ぐように新しいネイティブ・スピーカーが誕生した。ロリアンのマン島チーム代表エイリーがその人だ。彼女は、ネイティブではないがマン島語が堪能な両親のもとで、新しくマン島語ネイティブとして教育された最初の人だ。彼女の幼少期は、それでもマン島語を喋れる人はきわめて限られていたため、ほとんどが顔見知りだったが、「いまでは会ったことのない人にもマン島語を喋れる人が多くて、マン島語が普及しているのを実感する」と答えている。    言語、音楽、ダンス──復興の糸口をつかみ、いま静かに、だが確かにマン島の文化が世界に発信されつつある。イギリスを訪れた際にはぜひマン島にも足を運んでみてはどうだろうか。